Vladimir Nabokov
304ページ(ハードカバー)
Knopf
2009年11月17日発売
文芸小説(ドラフト)
ウラジミール・ナボコフといえば、たいていの人はLolita(ロリータ)を連想する。というか、それしか思いつかない人のほうが多いだろう。ファンでない限り、それ以前に彼がロシア語で9つの小説を出版していたことや、彼が英語で書いた初めての作品がロリータだったとは知らないだろう。 (manpoiさんのご指摘でDmitriの前書きを読み直したところ、たしかに最初に英語で書いた作品がThe Real Life of Sebastian Knightと書いてあった。思い込みとは恐ろしいものである。ここで訂正とお詫びをしたい)
ロシア語から英語へのトランジションの時期に、ナボコフは重要な作品としてはロシア語で最後のprose「Volshebnik」(The Enchanter)を書いていて、これがLolitaの前駆である。ナボコフはこの作品をアメリカに移住する前のパリで友人たちに呼んで聞かせたことを記憶している。処分したか紛失したと思っていたこれが後にみつかり、妻と話し合った結果「英語で書くほうが芸術的に理にかなっている」という結論に達したという(Dmitriの前書きより)。
ずいぶん前に邦訳でロリータを読んだだけの私は、高校生の娘が英語でLolitaを読み始めたときオリジナルが英語だったかロシア語だったか記憶が定かではなかった。そこで調べたところ、Lolitaは最初に英語で書かれ、その後ナボコフ本人がロシア語に翻訳したのだった。
ロシア語、フランス語、英語を完璧に使いこなせるナボコフだが、ロシア語での創作に慣れていた彼が英語でこれほどの作品を書いたというのは驚くべきことだ。しかも、フラストレーションにかられて原稿を燃やそうとしたこともあるらしい。それを止めたのは先見の明がある彼の妻Veraだった。
ロリータを邦訳で読んでいたときにはセンセーショナルな内容にばかり気をとられて気づかなかったのだが、今回英語でLolitaを読んでみたところ、文章構成と表現の緻密さに感心した。ナボコフはどうやら相当な完璧主義者だったようなのだ。チェスのように最初の一手から最後の最後まですべてのmoveを計画して書き、完璧な文章になるまで何度も校正を繰り返したナボコフは、「ドラフトを残すなんて、素人のすることだ」と言っていたらしい。
この作品
The Original of Lauraは、1974年、当時75歳だったナボコフが
Dying is Funというタイトルで構想を練り始め、1975年から創作に取りかかっていた。タイトルはその途中で
The Opposite of Laura そして最終的に
The Original of Lauraと変わった。本人の頭の中ではすでに完成していたようなのだが、1976年から数々の病に罹患したナボコフは作品を書き上げることなく1977年に肺炎で世を去った。彼は138枚のインデックスカードにドラフトを書き留めていたが、完成までに自分が死んだら処分するように妻のVeraに言い残していた。ナボコフがロリータの原稿を焼こうとしたときに止めたVeraは、このインデックスカードも処分することができず、一人息子のDmitriにこの遺産を残した。息子もまたこのカードの取り扱いを悩み抜き、遺作は30年近くスイス銀行の金庫に保管されていたのである。
Amazon.comでプレオーダーしていたThe Original of Lauraが届いたとき、私は出版社Knopfの姿勢におおいに感動した。傷つかないように配慮されたビニール包装を取り去ると、ミニマリストかつ印象的な黒いカバーが現れる。
そのカバーをはがすと予想した黒い無地ではなく、ナボコフのドラフトがデザインになっているクロスのような手触りの表紙が現れる。タイトルも彼の自筆だ。
中身はご覧のように実際のドラフトの雰囲気が伝わるインデックスカードそのままで、点線で切り抜けるようにもなっている(私はしないが)。読みやすいようにその下にちゃんとプリントもされている。
だが、内容はまだ骨格の段階である。主人公の老いた神経学者は若い妻(Floraだが、Lauraという小説中の小説のモデル)と結婚しているが、彼女は愛人を作り夫をないがしろにしている。女性の若い肉体への執着と老いた男性の肉体への嫌悪、そして死への甘美な憧憬などを読み取ることはできるが、どちらかというと彼が自分自身に対して書いた覚え書きのようなものである。完成されたときにどんな小説になったのか想像するのは不可能だ。完璧主義者のナボコフが「処分してくれ」と頼んだ理由がよくわかる。
しかし、このインデックスカードの素晴らしさは、偉大な作家だったナボコフの創作の過程や思考回路を想像させてくれることである。ほとんどが鉛筆らしく、消しゴムで消した跡や待ちきれずに塗りつぶした箇所もある。「ここで彼は何を考えていたのだろう?」と想像するのもなかなか興味深い。
私は電子書籍のファンだが、この本ばかりは絶対に電子書籍にはできないし、するべきでもない。(良い紙を使っているからホントに重いし)紙媒体の良さを感じさせてくれる1冊だ。
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