2009年度ピューリッツァー賞受賞作なので、ご存知の方も多いと思います。いわゆる「短編で綴られた小説」。舞台はメイン州の海辺の田舎町クロスビー。とことん保守的な土地柄で、先祖代々この地で暮らし、この土地を強く愛している町民が多く、子供たちもまたそうした親の暮らしを継いでくれるだろうと思っていると、(日本の地方都市でも同じですが)この現代社会の風潮ではなかなかそうはいかない。よそ者は疎まれ、人々の食生活も昔ながらのもので、都会で流行る健康食などとんでもない。
そんななかで暮らす人々の人生模様とその内面が、簡潔ながら深みのある文章で綴られています。13の短編をつなぐ太い糸がタイトルともなっている女性、Olive Kitteridge。長年町の中学で数学教師を勤めてきた彼女は、普通の女性より頭ひとつ背が高いというその体型でまず人目を引き、ついで性格がまたかなり強烈。狷介で容易に人と馴染もうとせず、物言いは辛辣で直截、感情の起伏の激しい彼女は、生徒からも町の人たちからも恐れられています。対する薬剤師の夫Henryは、温厚で誰にでも愛想がよく、皆から愛される人柄、傍目からは完全に女房の尻に敷かれている様子。こんな夫婦の人物造形がまず鮮やかに提示されるのが、最初の『Pharmacy』。他にも何篇か見られる手法ですが、今や職を退いた老年のHenryが教会へ行って帰るまでの短時間の回想によって、夫婦が中年だった頃のとあるエピソードが語られ、同時に現在の、人生の幾多のしこりや亀裂を共に乗り越えてきて今では喧嘩しつつも強い絆で結ばれている(夫婦どちらもが、相手のいない暮らしには耐えられないと心底思っている)老夫婦の様子が描かれます。エピソードの中心となるのが、当時のHenryの、妻とは正反対で優しく女らしい性格の、薬局で働く若い女性に対するほのかな思い。Henryの憶測では、どうやらOliveのほうも当時同僚教師と何かあった模様(この件はのちに『Security』で、Oliveの側から語り直されます)。そして、ここで提示されるちょっと辟易するような我の強い「謝ったことのない」女Oliveの人物像は、次の『Incoming Tide』では、鋭く賢い観察者として元生徒の内面を推し量り、繊細な思いやりでもって相手を包む姿に変わります。怖いキトリッジ先生は、また生徒から信頼され尊敬される優れた教師でもあったようなのです。
こんな具合に、Oliveとはまったく関係のない物語のなかにも彼女の町での存在感をちらっと見せながら、十三の物語が並んでいるのですが、メインの流れとなるKitteridge夫婦の人生はといえば、田舎町で夫婦で地道に共働きし、一人息子が結婚して同じ町で所帯を持ち、自分たちと同じように子を育てていく姿を見る日を楽しみにしながら、近くに立派な家まで用意してやっていたのに、なかなか結婚しない息子に気をもまされたあげく、やっと結婚したと思ったら、相手は都会から来た(Olive以上に)我が強くて権高で高慢ちきなヨメで(ヨメは内科医で、足病医の息子より収入もずっと上)、ことあるごとにむしゃくしゃさせられ、揚句に息子夫婦は突然遠いカリフォルニアへ引っ越してゆき、Kitteridge夫婦はがっくり、そこへ息子から離婚したと知らせがきてうろたえ(今時、息子の離婚を他人に告げられない夫婦なのですよ!)、喧嘩ばかりしながらも互いにかけがえのない存在だったのに、夫Henryが発作によってただ「生きている」というだけの存在となってしまい、一方息子は子持ちの女と再婚してニューヨークへ移り、、、、という具合。Oliveという頑なな女性の人生とその終盤のうつろいを、彼女の周辺の人々の人間模様とあわせて、じっくりと見せてくれます。
13の短編で描かれるのは、夫婦の愛や気持ちの齟齬(うちの亭主は「めし、風呂、寝る」の三語しかいわないというのは、よく妻の不満として取り上げられるところでありますが、『Starving』に登場する夫は、子供たちが独立してがらんとした家が寂しくてたまらない自分とひきかえ、さっさと新たな生き方を確立して趣味の仕事で金まで稼ぐようになり充実した日々を送る妻が、夫婦の会話といえば「あなた、晩御飯は何が食べたい?」としかいってくれないことに強い不満を持ち、心の繋がりを育める他の女性に惹かれていくのであります)、親子の愛情や思いの行き違い、歪んだ親の愛情に傷つく子供、夫の浮気に苦しむ妻、パートナーに先立たれる悲しみ、などなど、誰にでも思い当たることがあるような、身近なテーマばかり。どの読者も、どこかしらに自分の物語を見つけるのではないでしょうか。
読み進むうちに、Oliveの喜怒哀楽がじつにリアルに迫ってきて、堅いゴツゴツした殻の下にある傷つきやすくナイーヴな彼女の心根が愛おしく、第一話では「嫌な女」だった彼女のイメージがどんどん変わってきます。『A Different Road』での、銃を構える犯人の目の前でOliveが姑に対する昔の恨みを持ち出して夫婦喧嘩を繰り広げる場面は、ドタバタコメディーのようでなんともユーモラスだし、『Security』で、初めて訪ねたNYの息子の新家庭(息子は自慢げなのですが、Oliveにとっては狭苦しい都会のアパートはなんとも惨めったらしく見え、親がせっかくあんなに広々とした美しい家を用意してやってるのに、とつい思ってしまうのであります)であれこれ胸をよぎる思いを、今や聞いても理解できない寝たきりの夫に電話しないではいられない(施設に電話して、いつもぼうっと薄笑いを浮かべているだけの夫の耳に受話器をあてがってもらっては、「前のヨメはタカピーで嫌味な女だったけど、今度のヨメは、ありゃあアホだわ」とか、「ねえねえ、うちの息子ったらねえ、訪ねてきた母親を地下の物置部屋みたいなところで寝かすのよ」とかしゃべるんです)姿や、その夫がいなくなると、今度は、うっとうしがられるのをわかっていながら、なにかあるごとに息子に電話してしまう『River』での姿は、意地っ張りな癖に実は寂しがりの彼女の愛らしさが出ていて、切なくなります。最後の『River』ではそんなOliveにちゃんと救いが用意されていて、温かい読後感が残るのもいいです。
一篇一篇がじつに見事。会話やちょっとした描写から鮮やかに登場人物の人となりや人生のありようを浮かび上がらせる描き方も、構成もすばらしく、13篇どれもはずれがありません。滑稽で悲哀に満ち、それでいて愛おしい「人生」というもの、人が生きるということを、しみじみ考えさせてくれる一冊です。
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