6章 差別や偏見が「かっこわるい」高校
エスタブルック小学校には、前章でご紹介したような多様な文化的背景の家族だけでなく、同性カップルや、外国から養子を引き取った家族、シングルマザー、祖父母に育てられている子供など、一般的な家族像には当てはまらない家族もたくさんいました。
それらの子供たちが学校で差別されたり、いじめられたりしないようにするためには、子供だけでなく親も含めた教育をするべきだと「反偏見委員会(通称ABC)」のメンバーたちは考えていました。
教育といっても「教えてやる」という態度では親の反感を買うだけです。そこで、委員会が思いついたのが、「ディバーシティ(多様性)・バッグ」です。
エスタブルックに通う子供たちが自分と同級生たちの違いを理解し、受け入れられるように、外国の文化や伝統を紹介する本や世界各国の料理のレシピ、ゲーム、ユダヤ人とキリスト教者の間の心温まる交流を描いた絵本、エスタブルックに存在する異なる家族を紹介する絵本などを年齢に応じて選びます。それらをトートバッグに入れた「ディバーシティ・バッグ」を教室に設置し、希望する子どもに家に持ち帰ってもらい、親子でそれらの本を読んで語り合う機会を持ってもらうというものです。教育熱心な親が多いので、こういった特別な宿題を喜ぶ人がけっこういるのです(ただしこれはオプションであり、持ち帰る義務がないことは学年の最初から親に通知してあります)。
レキシントン公立学校の関係者や保護者の努力は、実際にはどれほど効果があるのでしょうか?
親を通じて子どもにアンケートをしても、正直な言葉が戻ってくるとは思えません。
そこで、私は保護者を通じていろいろな生徒たちに声をかけ、「思ったことを正直に話してくれる」ことに同意してくれた(もちろん保護者の許可を得た)小、中、高校生たちから話を聞いてみました。
たいていの子は最初もじもじしているのですが、意見に対して批判や評価をせずに興味だけを示すと、そのうち気軽に質おしゃべりをしてくれるようになります。
その結果、ほぼ全員が「小学校では、いじめられたことも、いじめを目撃したこともない」と答えたのです。「あった」と答えた子も、詳細を聞くと、日本でよくある「集団で一人をいじめる」ものはなく、1人が1人をターゲットにして嫌がらせをしたものや、1対1の喧嘩で、それ以上エスカレートしたものはありませんでした。
当時中学校1年生(6年生)のジョーゼフ・マルケス君は、こう振り返りました。
「小学校ではいじめは見なかったな。ちょっとふざけるだけで補助教員が飛んできて怒鳴るのが気にいらなかったけれど。……でも、いじめがなかったってことはそれが役に立ったってことかな」
小学校では教師や補助教員が目を光らせているし、教師の権威を信じる年齢だからいじめはほとんど見られないようです。また、高校になると選択授業が増えて固定した集団がなくなるので、集団で一人をいじめたり、無視したりすることは「物理的に無理になる」と彼らは言います。
レキシントンの公立学校でのいじめは、どうやら中学校に集中しているようです。
中学生になると、子どもたちは集団に属する要求が強くなり、友人の集団から排除されることを何よりも恐れるようになります。
女子の場合は、突然ファッションが学校生活の重要な要素になってきます。ファッションに気を使い、人気者であることを誇りにする「ポピュラー・ガールズ」と呼ばれる集団が現れ、自分たちの気に入らない女子生徒にいやがらせをする現象が出てきます。高校生や大学生になった女子生徒に訊ねると、全員が「中学校が一番面倒な時期だった」と答えたのです。
けれども、レキシントンの中学校の救いは、女王様集団に影響を受ける子だけではなかったということです。
「そのブランドは私が見つけたのよ。真似しないでよ」とか「あなたの着ている服、ディスカウントで買ったってすぐわかるわ」といったコメントを与える子が現れると、必ずその場にいる第三者が「何を着ても個人の勝手じゃない」とか「意地悪ね」と言い返すパターンがあったと言います。
陰で噂を流す少女たちにその場で「悪口はやめて」、「聞きたくない」と伝える者も多かったというのです。
これは、エスタブルック小学校が取り組んでいる「第三者プロジェクト」がめざす結果で、少なくとも一部の中学生には効果が続いているということでした。
男子の場合もいじめが集中しているのは中学校でしたが、女子とは異なり、肉体的な脅しが加わっています。
いじめっ子のタイプで一番多かったのは、心身ともに成熟が早く、金銭的に恵まれ、「親から甘やかされている子」だったそうです。つまり、いろんな意味で「パワフルな男の子」がいじめっ子だったわけです。
日米ハーフのダニエル・オーナタウスキー君は、「いじめは日本のほうが多かった」と答えましたが、彼が通ったクラーク中学では、「金持ちで、両親に甘やかされて、口が達者な『王様』がいじめっ子だった」と振り返ります。
ライアン・パッチ君は、お金持ちの両親から甘やかされ、男性的なスポーツで活躍する男子生徒から、ドラッグやアルコールを押しつけられ、断ると人間関係のネットワークを使って嫌がらせをされたそうです。
アンドリュー・シルバーマン君は、中学3年生のときに身長が低いために体の大きな男子生徒に執拗な嫌がらせを受けていました。母親は、前述のエレン・シルバーマンさんです。
コネを使える立場にある彼女ですが、「校長や副校長に相談すると加害者が処罰対象になりかえって状況を悪化させる」と考え、代わりに学校の専門職、ガイダンス・カウンセラーと会って解決策を相談したそうです。ガイダンス・カウンセラーは学校の運営側には報告せずに相手の男子生徒を呼び寄せ、三人だけで語り合いました。それで、この問題は無事に解決したということでした。
「このような問題が生じたときに、対処するシステムが存在するということが大切です」と体験者のシルバーマンさんは強調します。
けれども、そういった男子特有のいじめも、高校になるとほとんど消えるそうです。
ダニエル君は「人が多すぎて、王様になれないんですよ」と説明してくれました。当時のレキシントン高校(9年生から12年生の4年制)の学生数は約1600人で、2012年現在は約2000人です。
レキシントン高校では選択授業が多く、それぞれの授業でクラスメイトが異なります。また、スポーツ、音楽、演劇、数学チーム、討論チーム、といった課外活動が多く、大きなグループは存在しません。つまり、王様がコントロールしてターゲットをのけ者にできる世界がないのです。
「そのつもりになれば、誰にでも属する場所がある」のがレキシントン高校だと、取材した高校生と卒業生は口を揃えて言いました。勉強ができてスポーツができない子には数学チームや討論チームがありますし、反対にスポーツができるけれども勉強が苦手な子にはラクロス、サッカー、フットボールで活躍する機会があります。それらに興味がない子にはアニメやポップ音楽を楽しむクラブなどがありますし、ないなら自分で作ってしまうこともできます。音楽では、オーケストラ、吹奏楽団、ジャズバンド、合唱、アカペラなど、レベルに応じて必ず属せる場所があり、演技ができなくても、舞台裏で演劇に参加できます。
こういった多様な才能に応える場があるのも、実は偶然ではありません。教育委員をはじめ、学校関係者は常に「すべての子どもに機会を与える」というレキシントン公立学校の基本的な理念を考慮します。だから、予算で何かがカットされそうになると、守るための闘いが水面下でくりひろげられるのです。町の予算で出ないのであれば、前述の「レキシントン教育基金」のような財団を作って、そこから合法的に公立学校の活動を援助する方法を考え出します。
こうして教育された子どもたちが通うレキシントン高校では、同性愛カップルもオープンに交際できる雰囲気があります。彼らの会話からは、「差別や偏見」をする人は「無教養(ignorant)」で「かっこわるい(uncool)」とみなされているようです。
エリック・アイド=ライナー君に初めて会ったのは、彼が高校2年生(10年生、15歳)のときでした。
彼自身はストレートなのですが、ゲイ、レズビアン、バイセクシュアル、トランスジェンダーなどの学生が差別やいじめで自殺することを防ぐ法案可決のために代議士と会ったり、新聞に投稿したりしている高校生活動家でした。
エリック君が政治に興味を抱いたのは小学校五年生の社会科の授業で「民主主義のプロセス」を学んだときだといいます。
彼が中学生のとき、レキシントン町では不動産税の値上げ率限度を無効にして赤字を一時的に解消するという「オーバーライド」が住民投票で否決され、「レクスプレス」という町の公共バスが運行中止しました。それまで頻繁にレクスプレスを利用していたエリック君は、そのときに政策が自分の生活に直接影響を与えることを痛感したのです。
そこでエリック君は小学校で学んだ「民主主義のプロセス」に従い、まず町の交通機関部に行って「車を運転できない老人や子どもにとって公共バスは不可欠です」と訴えました。すると、機関部はエリック君に、町の行政方針を決める行政委員会と話すようアドバイスしました。エリックが行政委員に陳情したところ、なんと行政委員は中学生の彼に「住民公開の行政委員会でスピーチをしてくれ」と頼んだのです。
委員会でスピーチを行い、住民580人の署名を集めた彼の努力に心動かされた行政委員会は「交通機関諮問委員会」を設けることに決め、エリックに『学生代表』になるよう要請しました。この委員会の健闘が功を奏して、次の住民投票では「オーバーライド」が可決されてレクスプレスが町に戻ってきたのです。
こうして地方自治体での「民主主義のプロセスは有効なのだ」と学んだエリック君は、高校生になってからはユースプログラムでワシントンDCに行き、陳情の仕方も学びました。
「ケネディ上院議員はものすごく真剣に最後まで聴いてくれました。後で礼状を出したら、ちゃんと自筆の署名入りで返事が戻ってきたんですよ!」
そんな話をしている途中、エリックの携帯電話が鳴り始めました。
「ちょっと失礼します……」と言って彼が話しはじめた相手は州の代議士ジェイ・カウフマン氏でした。
エリック君は、ロムニー州知事が拒否権を行使した「安全な学校と自殺防止プログラムのための資金」を州議員に覆してもらうために奔走しており、法案の内容と現状を町民に理解してもらうために、町の新聞に記事を書くことになっていました。
そのための電話取材を申し入れていたそうです。
エリック君の質問を傍らで「立ち聞き」していた私は、その内容に舌を巻きました。
「……知事は法案の中の言語を削除しようとしているのですか?つまり、その言語が削除されると、強制力がなくなるということですね。この法案は項目ごとに投票される予定なのですか?……」
高校生なのに、州議会の仕組みを一般の大人(たとえば私)よりずっと熟知しているのです。
エリック君について感心したのはそれだけではありません。
彼は「体制と戦う」ことではなく「恊働する」ことを信じる活動家なのです。
若者というのは「権力」を最初から否定して戦うことしか考えないと思っていたのですが、エリック君は、「どうすれば協力しあって自分の求める結果を得られるか」と考えるのです。「校長には校長の立場というものがあります」と相手の立場を考慮し、相手ができる範囲で交渉しようとするのです。
それだからなのでしょう。彼が手がけたものは、レクスプレスから「安全な学校と自殺防止プログラムのための資金」を含めて、すべて成功を収めているのです。
ミッキー・チェルニックさんは、全米でも有名なレキシントン高校の討論(ディベート)チームで活躍する少女です。
「企業や犯罪関係ではなく、社会的正義や公正を実現するために政策に影響を与える組織の弁護士になりたい」と彼女は将来の夢を語ってくれました。なぜ弁護士かというと、「社会活動家としてシステムの外で騒がしくするよりも、システムの中に入り込んで働くほうが社会を変える近道だと思うからです」とあっさりと答えました。
エリック君もそうですが、レキシントン公立学校の生徒は、理想家でありながらも現実的です。
小学生のときから生徒会役員を続けている七年生のジョーゼフ君も、大人が中学生の意見をさほど重視するとは思っていませんし、数人の中学生が何かを提言するだけで環境が簡単に変わると信じるほどナイーブではありません。けれども、「何もしないよりは、自分にとってベターな状況になるよう努力するほうがいいじゃないですか」と割り切っています。
レキシントン高校で「教師の教え方を評価する」クラブを作ったアリエラ・ロススタインさんも、ジョーゼフ君と同じようなことを語ってくれました。
「学生評議会はありますが、それは学校の方針や規則を決めるものです。教育に関して生徒がインプットする機会はまったくないんですよ。教師の教え方次第で生徒の学習意欲は変わるものです。だからフィードバックの機会を作るためにクラブを作ることを考えついたのです」
良いアイディアですが、教員組合がネガティブな評価を受け付けないために設立は難航しました。結局は、思いつくかぎりすべての役職と会って交渉する羽目になり、それぞれの教師の教え方のなかで学生が「好ましく思っている部分」のみをフィードバックすることで落ち着いたのです。
「良い教師はすでに学生に興味を抱いているタイプだからフィードバックをあまり必要としない。悪い教師はこちらが何を思っていても気にしないタイプだから効果があるかどうかはわからない」そんな現実的な見方をしながらも、アリエラさんは「環境を変える第一歩になるかも」と意欲を燃やしていました。
過去10年間に何十人ものレキシントン高校生と卒業生から話を聞きましたが、母校の誇りを語るとき、アカデミックな達成ではなく「政治や社会的正義について他校よりも敏感な学生が多い」という意味のことを口にする生徒が多くて驚きました。
彼らからは、「差別されたり偏見を受けたりする立場の人間を守らねばならない」という熱意も感じられます。差別をしたり偏見をもったりする生徒について語るとき、「無教養だ」「かっこわるい」という言葉が出てきます。
「あなたがそう思うようになったのは、学校の教育の効果だと思いますか?」と私が訊ねると、彼らは首を傾げます。
「周囲がそうだから、自然とそう考えるようになっていた」と言う子もいます。
子どもたちが自分でも意識しないうちに「民主主義のプロセス」を信じたり、「差別や偏見のない社会」をめざしたりするように育ったのは、レキシントン公立学校の教育の大いなる成果なのです。
次の章では、レキシントン公立学校がいかにして「教育」で有名になったのか、そのいきさつをお話ししたいと思います。
(つづく)
次回は、7章 「なにができるか、やってみようじゃないか」の時代
*注記
この記事は、主に1998年から2006年にかけて私がマサチューセッツ州レキシントン町の公立学校の関係者、保護者、生徒を取材して書いたものです(その後の取材による加筆あり)。公式記録に実名が出ているために隠す必要がない人と許可を得ている方人は実名です。場合によっては許可を得ている方でも仮名あるいはイニシャルの場合があります。
登場する方々の肩書きと年齢(学校の学年)は、取材当時のものです。
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