4章 志ある町民が志ある学校を作る
レキシントン町教育委員会(School Committee)の委員長トム・ディアス氏は、「ほかの州に住んだことがない人にはわかりにくいかもしれませんが……」と前置きしてから、「レキシントンは、特殊な町なのです」と説明してくれました。
「マサチューセッツ州に比べると、他の州の地方自治体は、はるかに政府まかせなんです。愚痴は言うけれども、自分の手で改善しようとしない」
この言葉は胸にぐさりときました。
日本に住んでいた頃の私は自分が住んでいる町や市がどのように運営されているかなんて、まったく知りませんでした。税金の使い道にも興味もありませんでした。学校や政府が私たちの面倒を見てくれるのが当たり前だと思っていましたから、それが裏切られると、失望し、立腹したものです。
私が学生のころにはまだ学生運動(というよりも内ゲバなどの暴力抗争)が盛んでしたが、体制への失望は「破壊」の勢いには繋がっても、「改善」への意欲にはなっていませんでした。彼らの言動に嫌悪感を抱くのに十分な実体験をした私は政治的なものにアレルギーを覚えるようになっていましたから「地方自治体の運営に手を貸す」という方法があるとは考えてもみなかったのです。
「マサチューセッツ州の住民は行政のプロセスに自分たちが参加するのは当然の権利だと信じているのですが、レキシントン町の住民はさらにその意志が強いのですよ」とディアス氏は言います。
ディアス氏の説明に移る前に、レキシントン町の背景を簡単にご紹介しましょう。
1775年4月19日、独立革命を企てた「自由の息子たち」の指導者で後に建国の英雄として歴心に残るサミュエル・アダムズとジョン・ハンコックはボストンから15キロメートルほど北西にある農村のレキシントンに隠れていました。レキシントンは植民地兵「ミニッツマン」の重要な拠点でもあったのです。
18日から19日の早朝にかけてイギリス軍は「アダムズとハンコックを逮捕する」という名目でボストンからレキシントンに向かいました。実際の目的は、革命を企てる植民地兵が貯蔵していた武器を取り上げるというものです。
当初は英国軍も植民地兵たちも戦争を始める予定ではなかったのですが、町の広場でにらみ合いになっているときに放たれた一発の銃声がきっかけで撃ち合いになり、「レキシントン—コンコードの戦い」が始まったのです。小規模ながらも植民地兵が勝利したこの戦いが、アメリカ独立戦争の初戦であり、レキシントンはアメリカ国民にとって特別な意味を持つ町になりました。
それから約200年の間、「建国の英雄」の子孫達にアイルランド系移民やイタリア系移民が加わったものの、レキシントン町は、人よりも牛の数のほうが多いような農業中心の小さな町にすぎませんでした。
そののんびりした町に変化をもたらしたのは、第二次世界大戦後の経済ブームでした。町は急速にボストン市のベッドタウン化し、1950年から60年代にはボストンとケンブリッジ市周辺からハーバード大学やマサチューセッツ工科大学の職員たちが自然の多い環境を求めて移住してきました。
「アメリカ独立戦争で最初の銃弾が放たれた町」に、言語学者で思想家のノーム・チョムスキー、ノーベル平和賞のヘンリー・エイブラハム、知的巨人と呼ばれる昆虫学者のエドワード・オズボーン・ウィルソンなどに代表される知識人たちが増え、成人人口の30%以上が大学院の卒業者という環境に変わってゆきました。
政治的な環境も変化しました。第二次大戦直後には民主党員が四人しかいない保守的な町だったのですが、新しい住民たちのために急速にリベラルに傾いていったのです。
誇り高き「建国の英雄たちの子孫」の住民にリベラルな知識人が加わり、異なる理想と現実のせめぎあいを「抗争」ではなく「恊働」で解決していったのが現在のレキシントン町なのです。
そういう町だから、運営システムが隣町とでさえ異なります。
お隣のウォルサム町では町長が選挙で選ばれ、税金から給与が出ます。でも、レキシントン町には「町長」というポジションそのものがないのです。
その代わりになるのが5人のメンバーで構成された「行政委員会(board of selectmen)」です。住民の選挙で選ばれるところまでは同じですが、完璧にボランティア、つまり「無給の町民」です。
行政委員が作った町の運営方針と予算を実行に移すのが、行政委員が任命した「タウンマネジャー」です。多くの場合は他の町に住んでいる専門職であり、「雇われ社長」のような存在です。行政委員ほどの権限はありません。
この町で「行政委員会」の次に重要なポジションが、先にご紹介した「教育委員会(School Committee)」なのです。
行政委員と同様に住民選挙で選ばれた5人のボランティアで構成され、任期は3年です。毎年1人か2人ずつ任期が切れるようになっているのは、継続性を持たせるためです。
「教育委員会」と「教育長(Superintendent)」の関係は、「行政委員会」と「タウンマネジャー」と似ています。
つまり、無給のボランティアのほうが有給のプロよりも、権限を持っているのです。そして、その無給のボランティアたちは、3年に一度住民から評価される立場です。
問題が発生したら町民から抗議の電話が集中する心労の多い役割なのに、選挙費用を自己負担してまで行政委員や教育委員のボランティアをするのはなぜなのでしょう?
前述の教育委員会の長、ディアス氏はこう説明しました。
「私の娘は、レキシントン公立学校ですばらしい学校生活を送りました。ですから、いつかそのお返しをしたいと思っていたのです」
教育委員には、ディアス氏のような恩返しの情熱を抱くかつての保護者や教師が多いようです。
もうひとつは、政治的な意義です。アメリカ合衆国では、ディアス氏のようなヒスパニック系のマイノリティはよく差別されます。
「教育委員は、人々から尊敬される地位なのですよ」と、アメリカ独立戦争勃発地のレキシントン町の住民が彼を教育委員という地位に選んだことの意義を教えてくれました。
「アメリカの公立学校というのは、『手に職をつける(vocational)』ためではなく、民主主義を遂行できる市民を育てるために作られたということを知っていますか?」
そうディアス氏にたずねられた私は、「知りませんでした」と正直に答えました。
ディアス氏が語ったのは、かのサミュエル・アダムズのことです。
日本人にはビールの銘柄だと思われていますが、サミュエル・アダムズは、英国の植民地課税政策に反対して独立戦争のきっかけとなった「ボストン茶会事件」を首謀し、「レキシントン—コンコードの戦い」の日にはハンコックと一緒にレキシントンに隠れていました。
このような革命活動家だったのですが、二代大統領のジョン・アダムズのまた従兄弟で、建国の後にはジョン・アダムズらとともにマサチューセッツ州の憲法を書き、州知事になった知識人でもあります。
アダムズは、住民に知識がないと自由や民主主義を理解することすらできないことを痛いほど実感したようです。彼は、革命前にジェイムズ・ワレンに宛てた手紙のなかで、「知識が普及し、徳が順守されれば、誰も従順に自由を引き渡したり、簡単に征服されたりはしないだろう(For no People will tamely surrender their Liberties, nor can they easily be subdued, where Knowledge is diffusd and Virtue preservd.)」と書いています。
アダムズがすべての市民に教育を与えるよう主張し、マサチューセッツ州の憲法に公教育について記したのは、市民全体の知識レベルを上げなければ民主主義の実現と存続は不可能だと知っていたからなのです。
日本に住んでいるころに当たり前のものとしてとらえていた「自由」や「民主主義」ですが、「自由と責任」や「権利と義務」がセットであることや、民主主義に「参加の義務」があるという基本的なことすら考えたことがありませんでした。サミュエル・アダムズの視点からは、私みたいな国民が揃った国では民主主義の存続は無理です。
内心反省している私にディアス氏はこう続けました。
「アメリカのどの地を訪れても、住民に『あなたの地方自治体でもっとも重要な公共施設は何か』と尋ねると『公立学校』だという答えが必ず戻ってきます。たとえ公立学校にどんなに不満を覚えていても、答えは変わらないのです」
その公立学校の方針を決める教育委員は、町にとって、そして住民にとって、非常に重要な地位なのです。イギリスという大きな権力に反抗した祖先を誇るレキシントン町の住民がキューバからの移民の二世であるディアス氏に与えた信頼は、それほど大きなものなのです。
調べてみると、日本にも似たような制度が存在したらしいのです。
第二次世界大戦直後アメリカからの影響で定められた「教育委員会法」では、一部住民の公選、一部議会の選出による「教育委員会会議」が「教育長」を任命していたそうです。けれども、このときも教育委員の権限は少なくて、昭和31年の地方行政法では教育委員の公選が完全に廃止されました。そして、平成11年の「地方分権一括法」では、住民公選の「首長・議会」が「教育委員」を任命し、「教育長」は教育委員のうちから任命され、事実上、「首長」に「教育長」の選任権があるという風に改訂されたのです。
でも、日米の「教育委員会」は、名前は似ているけれども別物ととらえたほうがいいでしょう。この差は、「命がけで勝ち取った民主主義」と「敗戦で押し付けられた民主主義」の違いかもしれません。
少なくとも、レキシントン町の教育委員たちは、「民主主義」における「義務」を非常に重視しているようです。「共通テストの点数」とか「名門大学に合格した生徒数」などといったテーマはまったく話題になりませんが、「共通テストの準備で授業の時間が削られている小・中学校で民主主義をいかにして教育するべきか」という悩みはしょっちゅう耳にします。
民主主義の教育もそうですが、この町の公立学校では「偏見と差別がなく、すべての生徒が安心して通える」ことが非常に重視されており、公立学校の「使命(mission)」にもそれが反映されています。
ちょうどこのとき「使命」の内容を見直しているところらしく、ディアスに「あなたも委員会に加わりませんか?」と誘われました。すでに多くの委員会に属していたときなので「これ以上は無理です」と断りましたが、この町では外国人の私にさえ軽く委員会への参加を頼むのです。
私が数々の町の委員会に参加するようになったのは、先の章でお話しした幼稚園でのボランティアがきっかけでした。ひとつのボランティアが次のボランティアに繋がり、そこでできた人間関係から町の委員会に誘われ、次々と関わるようになったのです。
ボランティアとして内部から公立学校や町を観察すると、「差別、偏見、いじめがない環境」を作るためにどれだけ多くの人がたゆまぬ努力を積み重ねているのかが見えてきます。ですから、「もともとそういう町なんじゃないの?」と興味も示さないくせに何か起きたときだけ大騒ぎするアジア系の移民が増えてくると、悲しくなるだけでなく、「無知」が広まることの恐ろしさを感じるのです。
次の章では「差別がないコミュニティ」を作るためのエスタブルック小学校の努力をご紹介します。
(つづく)
次回は、5章 差別がないコミュニティ作り
*注記
この記事は、主に1998年から2006年にかけて私がマサチューセッツ州レキシントン町の公立学校の関係者、保護者、生徒を取材して書いたものです(その後の取材による加筆あり)。公式記録に実名が出ているために隠す必要がない人と許可を得ている方人は実名です。場合によっては許可を得ている方でも仮名あるいはイニシャルの場合があります。
登場する方々の肩書きと年齢(学校の学年)は、取材当時のものです。
私は、学校管理者、教師、親など心ある大人が集まって勉強会から始めるべきだと思うのです。いろんな文献を読んで、まとめて持ち寄り、コンセンサスを一緒に作るところから始めるのですよね。そして、継続的に勉強を続ける。それは、日本でもいろんな分野の人がやってきたことで、可能だと思います。まずはローカルに、そして成功例を広めてゆく、というのが私が観察した最も可能性が高いやり方です。
投稿情報: 渡辺由佳里 | 2012年7 月27日 (金) 09:05
うーん・・・読み進むほど考えさせられてしまいます。例えば、日本の小学校で「民主主義」や「日本国憲法」について情熱をこめて子供たちに語れる大人がどれだけいるか・・・。つまり、民主主義を正しく捉えるならば、それは権利であり義務である、といった当たり前の理念が定着しているのでしょうね。私はこの連載を「日本においてこれを実現するとしたら?」という視点で読ませていただいてますが、私たちの根本思想を変えていかない限り、上っ面だけでは無理ですね。
投稿情報: シュウ | 2012年7 月27日 (金) 08:56