2章 学業での達成よりも不思議な謎
20代にイギリスに何度か住み、スイス、フランス、ドイツなどをひとり旅したことがある私は、いろいろな国で差別された経験があります。
イギリスでは電車で日本人とおしゃべりしているときに見知らぬ男性から「ここはイギリスだから、英語で話せ!」と怒鳴られましたし、夜道で「チンク(中国人に対する蔑称)!」と呼ばれて数人の男性に追いかけられたこともあります。お店で私の順番なのに無視されたこともあります。ヨーロッパでの一人旅の途中でじろじろ見られたり失礼な扱いも受けました。香港に住んでいたときには、別の意味でイギリスよりも不愉快な思いを何度もしました。
夫の両親が住んでいるニューヨーク市近郊の町ではそういった差別は受けませんでしたが、裕福な白人が多いせいか「腫れ物を触るような」優しさを感じ、気楽につき合える友だちを作るのは難しいと感じました。
ですから私は、レキシントン町でもある程度の差別はあると予期していたのです。
私たち夫婦はわざわざアメリカ製の車を買ったのに、周囲のアメリカ人はスバル、トヨタ、ホンダ、マツダを乗り回し、「なぜ性能がよい日本車を買わずにアメリカ車なんかを?」と不思議がります。日本に住んでいた頃あんなにもよく耳にしたアメリカ人による「ジャパンバッシング」など、まったくありません。
それでも私は娘が幼稚園に入学するときには不安でした。自分がいじめられた嫌な記憶が忘れられないからでもあります。
いくら「アジア人が多くて差別が少ない地域」といっても、当時はまだアジア系は人口の12%くらいでしたからマイノリティです。子供はもともと残酷ですから、自分と異なる者を排除しようとするのではないでしょうか。
ボランティアになれば教室に入り込めると知り、私は無謀にも授業のボランティアを買って出ました。
最初にパートナーになった白人女性の態度はひどいもので、ずいぶん悩みました。そこでいつも元気よく数々のボランティアをしているお母さんのひとりに「私が何か間違ったことをしているのでしょうか?」と相談したところ、「そんな失礼な人なんか、相手にする必要ないわよ」と私の代わりに腹を立ててくれ、すでに他のボランティアで多忙なのに「私がパートナーになってあげようじゃないの!」と快く引き受けてくれたのです。彼女からは、学校の仕組みや、先生たちについていろいろと教わりました。
家の価格が上がってから引っ越してくるのは、私の最初のパートナーのように専門職やビジネスマンばかりですが、ボランティアの悩みから私を救ってくれた女性は、この町で生まれ育った生粋の「レキシントン人」です。ご主人は建設労働者で、彼女自身は小さな店の会計をやっていました。後に知ったことですが、小学校のボランティアには「花屋さん」や「警察官」や「パスタ専門店」といった地元に密接した職業の保護者が多く、外の人が「レキシントンの典型的な保護者」として想像するような「博士号を持つ専門職」ばかりではなかったのです。
このようにして授業に入り込んでみると、「州で最もアカデミックな学校」を感じさせる部分はありません。私がボランティアをしている「科学の授業」は、「太陽系」とか「温度による水の変化」をゲームのような実験で教えるものですが、テーマを紹介するだけで、実際にはただの「遊び」です。読み書きをきちんと教えることもないし、算数もほぼ皆無ですし、「アカデミックな学校の謎」を解明しようと思っていた私は、少々拍子抜けしました。
その代わりに、意外なことに気づきました。
担任教師が子供をよく観察していて、「からかい」や「仲間はずれ」といったいじめの芽に気づくと即座にやめさせるのです。
そして、子どもたちを集めて「そういうことをやってはいけない」といちいち説明するのです。まだ小さい子ですから長い説明ではありませんが、いじめの芽が出てくるたびに止めて「どんな理由であっても、他の子を馬鹿にしたり、からかったり、暴力をふるったり、仲間はずれにしたりしてはならない」と、しつこく、くりかえし教えるのです。
アジア系だけでなく、黒人やヒスパニック系、中近東、ヨーロッパからの移民もいるクラスでしたが、担任そのものがまったく差別的な発言をしません。
子どもがルールを破ると即座にびしっと注意する担任のことを「厳しすぎる」と文句を言う保護者もいましたが、娘に訊ねると「ルールを破る子を注意してくれるほうがいい」と答えます。そのほうが、クラスで安心していられるのだそうです。
小学校1年生の担任の行動には別の意味で驚きました。
英語に訛りがある日本人の私に、なんと子どもに「本読み」を教えるボランティアを頼んだのです。
唖然としつつ「ネイティブのような発音ができませんが、いいのですか?」と訊ねると、「あなたの英語は上手ですよ。だいじょうぶ」と軽く請け合います。じっさいに、数人いるボランティアの中には私以上に訛りが強い外国人がいました。訛りの強い外国人がアメリカ人の子供に「本の読み方」を教えるのを教師が許可するというのは、イギリスに住んでいたときには想像もできなかった「信頼関係」です。
この担任は、ブロンドの少女たちが「ブロンドの子しか加われないクラブ」というのを作ったときに、即座にやめさせ「外見の差で人を仲間はずれにしてはならない」と説明しました。担任の毅然とした態度は、黒髪のアジア系の子供たちを持つ親にとって、とても心強いことでした。
教師が決して差別的な発言をせず、異国からの移民である子どもだけでなく保護者も公平に扱い、どの教室にも差別やいじめを許さない環境があるのは、どうやらひとりひとりの教師の資質ではないようです。この学校にも多くの保護者が苦情を訴える性格が悪い教師がいた(その後、退職になった)のですが、その人ですら人種で差別するような発言はなかったのです。
校長の指導力によるものでしょうか?
娘が小学校2年生のときに校長が変わったのですが、新しい校長になってからも、差別やいじめを許さない環境は続いています。新任の女性校長から話を聞いてみることにしました。
前任者のホートン校長はとても愛想がよく、誰からも愛されていました。そのイメージが強かったせいか、新しい規則をどんどん取り入れて行く新任のジェイ校長は「ビジネスライクすぎる」と非難されていました。会って話を聞くと、実際に企業の管理職に就いていたビジネスウーマンだったそうです。
大学院に行き直して校長職に就いたのは、母親としての体験を通じて教育に興味を抱いたからだそうです。他の町の校長をしていたのですが、憧れのレキシントン町で空席ができたので応募したそうです。レキシントン町の公立学校は、どうやら「校長や教師が働きたい職場」のようです。ですから「よい候補者が集中し、よい教師を選びやすい」という利点があるのでした。
ジェイ校長によると、「差別と偏見がなく、すべての子供が安心して通える学校であること」というのは、彼女が決めた目標ではなく、レキシントン公立学校が掲げているものだというのです。目標が掲げられているだけではなく、教師が「どう行動すればよいのか」を学ぶためのトレーニングもあるのです。ですから、この教師が全員が統一した言動を取っていたのでした。
教師の資質はもちろん重要です。ですから選択の時点からその資質があるかどうか見極めねばなりません。むろん校長の責任は重大ですが、独断で教師を選んだりはしないそうです。
ジェイ校長から「保護者が教師の選択に参加する」と聞いて私はびっくりしました。
この学校では投票で選ばれた保護者代表数名が「Site Council(学校評議会)」に加わり、校長と数名の教師代表と一緒に学校の方針を話し合います。ジェイ校長によると、教師を選ぶのはこの評議会なのです。
最も重要な基準は次の三項目です。
1.ポジティブな姿勢
2.子供好き
3.コミュニケーションの能力がある
面接では、「はい子供が好きです」というありきたりのやりとりにならないよう、具体的なシナリオを作り「こういう場合に、あなたはどうしますか?」と尋ねます。それらの質問に対する表情、ボディランゲージ、回答の内容に注意を払い、後で会議をして「適任者かどうか」を決めるのだそうです。「偏見や差別意識がない」ことと「子供にとって最もよいことを考えられる人」は、ジェイ校長が特に注目する部分です。
それにしても、教師を選ぶ過程に保護者が加わるとは驚きです。
ところがジェイ校長によると、彼女が校長に選ばれるプロセスにもこの学校の保護者が深く関わっているというのです。「自分たちの子どもたちが行く学校の校長は、自分たちの手で選びたい」という願いは分かりますが、それを許すシステムが存在するのは驚きです。
誰がこんなシステムを許しているのでしょうか?
(つづく)
次回は、3章 住民が徹底的に参加する公立学校
*注記
この記事は、主に1998年から2006年にかけて私がマサチューセッツ州レキシントン町の公立学校の関係者、保護者、生徒を取材して書いたものです(その後の取材による加筆あり)。公式記録に実名が出ているために隠す必要がない人と許可を得ている方人は実名です。場合によっては許可を得ている方でも仮名あるいはイニシャルの場合があります。
登場する方々の肩書きと年齢(学校の学年)は、取材当時のものです。
やっぱり、システムが重要なんですね。それから、企業でいうところの「ミッション・ステートメント」のような思想が、学校構成員と地域住民との共通項になっていることも大きい。教師の資質の大切さは言わずもがな、ですけど、人柄も教育技術も完璧・・・という方はなかなかいないわけですし、教員も子供と共に成長できるという土壌があるのは素晴らしいです。
投稿情報: シュウ | 2012年7 月27日 (金) 07:54
ishibeさま、
お返事が遅れてごめんなさい。
事件が起こるたびに「怒って、忘れる」のではいつまでたっても解決しないと思っていましたので、この機会にがんばってこの連載を書いてみることにしました。
多くの人が、「学校とは何なのだろう?」「私に何ができるのか?」と「私」の問題と考えて、何かに「長く」取り組んでいただければ嬉しいと思います。
投稿情報: 渡辺由佳里 | 2012年7 月27日 (金) 03:54
人が人と接する時の姿勢というか態度というかそういうものを公共の場で、つまり家で両親に他人には優しくっと言ってる場合とは異なる環境でどのようにしたら良いかのを他人が見ている前で学ぶ場としての学校ってなかなかないですよね。平等であることはどういうことなのかを具体的に指導するのが学校、人が人として大切にするものを教えるのが学校。そもそも学校というもの対する考え方を変えることが今必要なんでしょうね。
投稿情報: Hidenori Ishibe | 2012年7 月23日 (月) 07:47