日本人の悪い癖「完ぺき主義」を捨てましょう!
私が初めてイギリスに行ったときのことです。会話の途中で文法が間違っていることに気づくと、そこまで遡って、” I lived in Kyoto…(いやまだ住んでいるんだから) I live in…(いやいや、何年住んでいるかを説明する場合には現在完了形だから) I have lived in Kyoto for 4 years…”と正しいものが見つかるまで言い直す癖がありました。でも、ついにしびれを切らせた一人が、「Kyotoに4年住んでるのはもうわかったから、さっさと最後まで話してよ!」と注意をするまで会話をしらけさせる悪い癖なのだとは気づかなかったのです。
娯楽のために洋書を読むときでも、ひとつの単語、あるいは言い回しでひかかると、そこで立ち止まり、辞書を引いて明らかにしないかぎりは前に進めないのが日本人です。間違ったもの、わからないものをそのままにしておくのは、いけないことだと教えられてきたからです。
でも、そんなことをしていたら、昔の私のお喋りのように読書はちっとも楽しくなりません。
次は逆の例です。
それから3年後、またもイギリスでのことです。
私はフランス語が流暢なイギリス人に誘われて「37°2 le matin」というフランス映画を観に行きました。フランス語は「ほんのちょっとわかる」程度で、英語はまだ「まあまあ」でしかなかった私は、フランス語の会話にはついてゆけないし、英語の字幕は読み終わる前に消えるしで、途中ですっかり努力をやめて画面をぼんやり見つめました。
すると不思議なことに、映画の筋がだんだん見えてきたのです。
映画が終わったときには涙ぼろぼろで、「こんなに感動したラブストーリーはない!」と思ったくらいです。(本当にいい映画でした。ぜひご観ください)
映画は視覚から得る情報がありますので、もちろん読書とは異なります。
けれども、映画であれ読書であれ多少わからない部分があっても、私たちの脳は想像力で自然に空隙を補っています。だから多少情報が欠けていてもおおまかな像を描くことはできますし、それができたら十分読書を楽しむことはできるのです。
もしすべてをくまなく知りたいのであれば、私が「37°2 le matin」を数年後に観なおしたように、読書力がついてから読み直せばよいのです。
娯楽としての読書は、楽しくなくては意味がありません。楽しむためには「完ぺき主義」を捨てましょう。
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