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対談その6「日本のPTAで難しいのは、どこの部分か」
前回、レキシントンでのPTA活動の「リーダー」についてお話を伺いました。「できない人には「できること」だけをやってもらい、楽しさを体験してもらうことで「やる気」を出してもらう」というのは大事なこと、といったことでしたね。
ぼくの知る範囲の日本のPTAでは、それがなかなか機能していないんですね。だから、「そんなリーダーがいたらいいのに!」、「自分は出会えなかった!」みたいなことを言ったのですが、実は、すぐにそんなことないんじゃないかと思い当たりました。
そういうリーダーは、日本でも普通にいるんです。たぶん、これは気持ち良く仕事したい人間の本性みたいなもので、リーダー自身も、リーダーじゃない人も、前向きに楽しくやりたいし、そうするために工夫するんです。そして、そこまでは割と普通にできます。ただ、その体験をポジティヴな終わらせるのが難しいんです。
そのあたりに鍵がありそうですね。具体的にお話を伺いたいです。
とても的を射た言葉だなあと思い出すんですが──年齢の離れたお子さんがいて、PTA歴15年という人が、「PTAで大変なのは、役決めまで。決まってしまえば、あとはスムーズに流れる」と言っていたんですね。ぼくがPTA初心者の頃。その時はぴんと来なかったけど、今にして結構、当たっている部分もあると。
日本のPTAでは、まず役を決める部分が大変なのですか。
レキシントン町のエスタブルック小学校では、PTA会長以外のリーダー役は、個人的に「やってくれない?」と頼まれて引き受けたり、空席のリストを見て「これ、私がやりましょう」とサインアップしたり、ものすごくカジュアルに決まるんですよ。ですから、そのあたりがちょっと違いそうですね。
大変なのは、年度初めに、なんとか委員会とかなんとか部長をクラスから決める時と、その中でリーダーとなる委員長やら部長を決める時。実は、これだけじゃなくて、次年度の本部役員を決めるために、2学期、3学期に、きついことになる場合も多いんですが、ここは、単純に「なんとか委員会」レベルの話をします。
例えば、広報委員会でも、文化教養委員会でも、なんでもいいんです。広報誌を出すとか、家庭教育についての勉強会をやるとか目的があって、リーダーが決まると、それなりに回っていくんです。そういうの、目の前で見てきました。
なるほど。日本ではリーダーさえ決まれば、ちゃんと回ってゆくということですね。そこもちょっと私の体験とは違うかもしれません。
広報委員会なら、わたしは文章書ける、わたしはレイアウトできる、写真を撮るのが好き、特別なスキルはないけどネットで安い印刷屋さん探すといったふうに、バタバタと役割が決まっていく。リーダーである委員長が──例えば、ぼくの知人ですと、編集経験があって、そういう立場の人が多くなるんですが──、委員会メンバーができることを把握して、うまくまわしていくケースは本当にあるんです。見ていて、キモチイイですよ。
たしかに、日本のほうが作業をきちんとこなせる人は多いような気はします。少なくとも、私が卒業アルバム作成で得たパートナーのような人はいないかと(笑)。
でも、それが可能だとしたら、日本のPTAはアメリカのPTAよりもスムーズに行きそうですが…。
やっぱり、前に話題にしたようなことが問題になります。例えば、広報委員会でアンケートをすることにきめました、と。「保護者が学校について思っていること」「教職員が保護者について思っていること」お互いに要望を出しましょう、というようなもの。
アメリカでは、レキシントン町のみならず、保護者から学校への文書やアンケートでの要望はよく行われていることです。また、学校から親への要請は、個人的な感情を含んだものではなく、学校から配布されるガイドブックの中にすでに「規則」として取り入れられています。それらが問題になるというのは考えられないのですが。
PTAは親と教員の会なので、こういうのは企画としていいのではないかと決めて、運営委員会でもゴーサインが出ているんですけど、それでもいろいろなパターンがあります。一つ目は、学校とのやりとりでのフラストレーション。
学校ルートで配る以上、学校側の確認は必須なのかもしれないんですが、、実は今も、ファクスやメールで確認してもらえるのは珍しいんですよ。かりにオーケイと言われても、返事がなかなか来ないから、結局、アポとって担当者──大抵、副校長とか校長なんですが──に見せに行くことになったり。それ、大抵昼間です。仕事してる人は辛いです。でも、実際に訪ねても職員室や校長室にいなくて、ずっと待つことになって会えなくて、こっちも予定があるから仕方なく机の上に置いていっても反応はなく……結局、ぎりぎりになって直しが入る、というパターン。
それはきついですね。
私は小学校の校長、教師(希望者)、保護者(希望者)で構成されている「反偏見委員会(anti-bias
committee)」のメンバーだったのですが、会議は仕事をしている人が参加できる夕方に設定されていました。
校長や教師にとっては無報酬の時間外勤務ですが、彼らは保護者の意見を取り入れられる機会を尊重していましたし、この委員会では教師と保護者の関係を超えた仲間意識も生まれました。
また、教育委員長やその他の学校関係者にしてみても保護者と同様に昼間は仕事で忙しいので、たいがいの交信は早朝や帰宅後にできるEメールです。問い合わせへの回答も迅速ですし、レキシントン町の公立学校に関しては、他の職場との差をそれほど感じたことはありません。他の職業を体験してから教師や校長になる人が多いせいかもしれませんが、コミュニケーション技術を重んじる米国の教育の成果かもしれません。どちらにしても、ベタベタしていない、ビジネスライクな恊働関係であることは確かです。
日本のPTAが、学校の嫁と言われちゃう所以なんですよね。広報委員長の経験者がいってましたよ
。「学校にとってPTAの広報誌の優先度が低いのは分かる。でも、学校社会と、外の社会のスケジュール感覚が一番食い違うのが、広報誌の仕事」って。印刷という外注の工程がある以上、締め切りがあるのに、それを理解してもらえない。
それだけで充分、フラストレーションがたまるんですが、場合によってはもっと酷くなって、それがパターン2ですね。副校長や教頭がオーケイと言って、さあ、印刷に出そうという段階で、校長が気に入らなくてお蔵入りになるとか。ここまで来ると、検閲みたいなんですが、本当にあちこちで聞きますから。
それは、学校がPTA広報誌から得る恩恵についてちゃんと理解していないということですよね。
また別の機会にお話ししたいのですが、レキシントン公立学校の校長たちは、保護者との恊働の利点と欠点を秤にかけたうえで、得るもののほうが大きいと判断しています。ですから、PTAによる広報活動は学校や学校関係者を支えて応援する非常に重要なものだと捉えているのですが…。
そうですね。日本の広報誌はせいぜい学校広報を補完するもの。学校広報と区別つかなものもよくありますよ。そして学校にとってよい広報紙ができ、賞などをもらえば、「うちは保護者とこれだけ連携できてます」というポーズをとれる。でも、こういううまくいった例でも、、いわば第3パターンが炸裂するんです。最後の最後でPTAの会員内で「あんなにがんばったから、来年の広報委員会が大変」とか言われてしまう。
せっかく高揚した意欲をことごとく摘んでいく仕掛けが、あちこちに仕込まれているようなんです。
その「高揚した意欲をことごとく摘んでいく仕掛け」に注目してみたいです。
というのは、ステレオタイプな話で申し訳ないのですが、私自身が日本の組織や企業で働いた体験から強く感じる日米の差がいくつかあり、そのひとつが、川端さんが指摘された「高揚した意欲をことごとく摘んでいく」という部分なんです。
私は日本で助産師、広告代理店勤務、外資系企業のプロダクトマネジャー、といろいろな職業を経験してきましたが、仕事そのものに関しては、一度も「辛い」と思ったことがないんです。全部楽しかったし、やりがいを感じました。けれども、どの職場にもそのやりがいを殺してゆく人がいて、それらの人々との関係に疲れ果ててしまったんです。
当時は自分の心が弱いせいだと思っていたのですが、最近になって私と同じような体験をしている人が多いということを知りました。川端さんがおっしゃっているPTAの問題にも共通するような気がします。
この違いはどこから来るのでしょうか?
また、それをどうやったら改善できるのでしょうか?
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