糸井重里さんの9月16日の「今日のダーリン」(コンテンツは毎日更新なので同じ内容ではありません)に、こんなことが書いてありました。
わたしは「いてもいいんだ」という肯定感。
わたしは「いたほうがいいんだ」という歓び。
それは、じぶんひとりでは確かめにくいものだ。
「いてもいいよ」「いたほうがいいよ」という、
声や視線が、「誇り」を育ててくれるかもしれない。
懸命に勉強をして、じぶんが「いてもいい」ことを、
なんとかじぶんで探しだすことも、ありそうだけれど、
ひとりでやるより、誰かに手伝ってもらったほうがいい。
あなたから「誇り」を奪い取ってしまおうとするのは、
実は「誇り」を持てないで苦しんでいる人間だろう。
「誇り」をなくさないでいる人は、
他の人の「誇り」を奪ったら、
じぶんの「誇り」が失われることを知っている。
他人の欠陥を見つけることに全力を注ぐ人よりも、他人の長所を褒める人とつきあいたいと思い、
他人を傷つけるもっとも有効な策を練ることよりも優しくすることを楽しむ人に囲まれたいと願い、
「苦しまなければ努力していることにならない」と説教する人よりも「なるべく楽に生きられる方法を考えようじゃないか」と励ます人から人生の教えを請いたい。
私たちがそう感じるのは、ごくあたりまえのことです。
それに対して「おまえは義務を果たしていない」と責め、罪悪感を与える人々がいます。
でも、
私は、それらの「義務」を果たさなかったからこそ、夫や(その結果の)娘という、人生で最も大切な人々と出会えました。
義務を果たしていたら、
「誇り」を持てず、他人の「誇り」を奪おうとする人になっていたかもしれません。
でも、ときおり私が選んだ人生について「罪悪感」を与えられることがあります。
楽しく、幸せに生きるために努力することが、まるで非常識なことであるかのように叱責されることもあります。
そのたび、捨てようとした「罪悪感」が戻ってきます。
世の中には、きっと、私のような人がたくさんいることでしょう。
それらの人々に、こう言ってあげたいと思います。
「私の人生をよく生きる」ことこそ私たちの人生の一番の義務なのです。
それを妨げようとする声をきかない選択をしても、あなたはけっして悪い人ではありません。
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