8章 「数学に強いレキシントン」の謎
レキシントン公立学校が「数学に強い」という噂はあるのですが、少なくとも私の娘が小学校に通っているときには特別なプログラムはありませんでした。最高学年の5年生の担任ロビンソン先生は娘に文章を書く情熱を植え付けてくれた素晴らしい教師でしたが、算数が苦手だということは本人も生徒も認めていました。
ほかのクラスでも特に算数が得意な先生はおらず、小学校だけだとアジア諸国に比べて遅れていたといえるでしょう。
けれども、ダイアモンド中学に入学したとたんに状況ががらりと変わったのです。
中学生(6〜8年生)を対象にした数学競技にはいくつかあるのですが、全米で最も有名な競技がこの「マスカウンツ」です。チャプター(地方)大会のトップ4人が州大会に出場し、州大会のトップ4人が州の代表チームとして他の州の代表者と競います。全国大会では中継もあり、優勝チームと個人優勝者は大統領からホワイトハウスに招待され、テレビの番組に招かれたりもするのです。
ふつうの中学では、チャプター大会に出場するのは「数学チーム」のメンバーです。けれども、ダイアモンド中学では全校生徒の中から代表者を選ぶのです。
最初のラウンドは筆記テストですからさほど面白いものではありません。けれども、次の「カウントダウン・ラウンド」はまるでゲームショーです。最初の筆記テストで全校(当時は約800人)のトップ16位に残った者が、全校生徒の前で1対1の早押し(ダイアモンド中学では挙手)数学クイズに挑戦するのです。
ミニ演劇ホールのような形の講堂のステージに16人が並び、まず16位と15位が対戦します。その対戦で生き残ったものが14位と、その勝者が13位と対戦します。こうして、だんだん上位争いになってくるので「カウントダウン・ラウンド」と呼ばれるのです。
司会者の先生は、生徒たちをクイズ番組の出場者のように楽しく紹介し、だんだん盛り上げてゆきます。視聴者のクラスメイトたちは観客席から自分のクラスメイトを大声で応援するので熱気に包まれ、ほんとうにゲームショーのような雰囲気になるのです。
取材した2004年当時、このイベントを全校レベルでやっていたのはダイアモンド中学だけで、町のもうひとつのクラーク中学は数学チームが地方大会へメンバーを出していました。そこでダイアモンド中学で「マスカウンツ」のカウントダウン・ラウンドの司会者をしていた数学チームの指導者エヴァグリオ・モスカ氏に話を聞いてみることにしました。
ダイアモンド中学でマスカウンツを始めたのはモスカ氏でした。しかも、マスカウンンツが始まった年からです。
最初は彼が教えている8年生のクラスだけで、カウントダウン・ラウンドもそのクラスだけの小規模なものでした。それでもクラスはゲームショー形式のコンテストの興奮に包まれて大騒ぎになるので、そのうち他の数学教師たちも「面白そうなことをやっている」と興味を抱くようになりました。そして、8年生のクラス全員が参加するようになり、次には7年生と8年生に広がり、そして現在の全校レベルの恒例行事へと進化したのです。
参加者が増えるうちにダイアモンド中学の代表者は州大会の上位をしめるようになり、全国大会の常連となり、1990年代にはモスカ氏が率いるマサチューセッツ州チームが全国大会制覇を果たし、教え子は個人優勝も成し遂げたのです。
ことにアジア系移民の保護者のなかに「レキシントンはアジア人の子が多いから数学が強いのだ。教育が良いからではない」と分かったようなことを言う人が多かったのですが、本当にそうなのでしょうか?もともと数学が得意な子が揃っていたのでしょうか?
でも、モスカ氏が新人教師として就職した1970年代のダイアモンド中学にはアジア人生徒はあまりいませんでしたし、数学のカリキュラムすらないほど混沌としていたのです。
前章でお話ししたように、1960年前後は「なにかできるか、やってみようじゃないか」という活気に満ちた時期でした。けれども、同時に無秩序でもあったのです。当時のダイアモンド中学は、残念なことに活気はあまりなく、ただ混沌としていただけでした。
学校は「教師なら、教え方は知っているだろう」とばかりにモスカ氏にいきなりレベルの異なる5つのクラスを受け持たせ、誰も面倒をみたくない数学チームを押し付けました。今のように新人教師へのトレーニングもありません。
最初の3年間は首を切られる可能性がある一年ごとの契約です。
ふつうの教師であれば、内心「なんてひどい学校なんだ」と愚痴を言いつつ、職を失わないように無難な仕事をしたことでしょう。
でも、モスカ氏はそうではありませんでした。
彼は、この無秩序状態を「かえって数学部門を徹底的に改革するチャンスだ」と思い、挑戦への興奮を覚えたのです。そして、周到に改革計画を立て始めました。
まず根気よく時間をかけて校長に自分の目標を語り、なるべく多くの優れた数学教師を雇用してもらうようかけあいました。そして、生徒の学習能力と速度に着目し、それぞれの速度に合わせたレベルに分けて教える方法を導入するよう説得しました。
モスカが提案したのは、6年生(中学1年生)を2レベルに分け、7年生では学習速度が特に早い者のために一番上のレベルを導入し、8年生で全員を3レベルに分けるというアイディアです。レベル分けすると、教える速度を調整できます。教師はターゲットを絞って説明することができますし、数学が得意な生徒は退屈しなくなり、数学が苦手な生徒は取り残されることが減ります。
モスカ氏が導入した数学の「学習能力別クラス」は、その後クラーク中学でも取り入れられ、小学校と高校とも連携して、特に優れた数学の能力がある生徒が数学のみ飛び級できるシステムに発展しました。
学校の数学教育のシステムを改革するいっぽうで、モスカ氏は押し付けられた数学チームを立て直そうと思いました。
でも、当時の数学競技のマサチューセッツ州東部リーグには参加校がほとんどなく、モスカ氏は「これでは生徒がやる気を起こさないのも当然だ」とため息をつきました。彼が大好きな野球でもそうですが、競争相手がいないリーグでは競う楽しみなんてありません。
「数学を、フットボールや野球みたいに誰でも参加できて、格好が良く、生徒に人気があるスポーツにしたい」
そう思った彼は、リーグの委員長に立候補して就任し、他校が数学チームを作るのを手助けし、9年のうちに参加校を51校にまで増やしたのです。
1984年に全米レベルの数学競技マスカウンンツが始まったときには、モスカ氏はマサチューセッツ州の指導者的存在になり、経験がない他校の教師を指導して、なるべく多くの学校が参加できるようにもしました。
こうして、ダイアモンド中学だけでなく、東部リーグに属する学校全体の数学チームが強くなっていったのです。
モスカ氏は、「チームワーク」を強く信じている人です。
どんなに優れた投手がいても、チームメイトが点を取ってくれなければ勝てません。ひとりの力だけで何かを達成するのは無理だとモスカ氏は強調します。
ですから彼は、情熱がある優秀な数学教師を雇ってくれるように校長に頼んだのです。名物教師タチアナ・フィンケルスタインさんのように、ずば抜けて優秀だけれど風変わりすぎて他の中学が雇わないような教師がダイアモンド中学に加わることができたのも、モスカ氏のおかげなのです。
また、自分の学校だけがひとり勝ちするよりも、リーグ全体のレベルを上げるように努力したのも、彼がチームワークを信じていたからです。
モスカ氏が30年前から同士として助け合ったのが、レキシントン高校数学チームを率いるサル・ラーマン氏でした。
数学オリンピック国際大会の金銀メダリストを出し、全米数学オリンピックの予選通過者の累積数では普通高校で全米トップというレキシントン高校数学チームの顧問を勤めるラーマン氏は、数学競技の世界では非常に尊敬されている人物です。けれども、それについて訊ねると、「私の指導能力ではありません。生徒が勝手に自分で自分を教えているんですよ」と軽くかわします。「私は、みんながやりやすいように、料理を作ってやったりして、楽しく学べる雰囲気をつくってやるだけです」と。
けれども、数学チームのキャプテンたちに訊ねると、「僕たちが解けない問題は当然あるわけで、そういうときに訊ねると、すらりと教えてくれます。非常に知識は豊富ですよ」と言っていました。ラーマン氏は、日本人のような「謙遜」をするタイプのようです。
ラーマン氏は「理論重視」の数学教育を信じている数学教師です。たいていの数学教師は、方程式を教え、何度も繰り返し練習問題をさせて記憶させる方法を使うのですが、彼は、生徒本人が理論を理解し、自分でそれを発展させてゆく方法でなければいけないと信じています。ですから、学生たちに理論に基づいた実験を薦め、一年に二度、学生本人が選んだ理論で調査研究させ、論文を書かせるのです。
「たとえばこの問題ですが……」とラーマン氏はホワイトボードに書かれた意味不明の図を指さしました。「私の生徒はすぐに理解することができますが、繰り返しで暗記する方法しか習っていない生徒は理解できません」
数学チームの生徒たちは「数学を良く知っている」と評価しますし、ダイアモンド中学で先に登場したフィンケルスタインさんの授業に慣れている生徒はちゃんと理解できるのですが、数学がそれほど得意ではない生徒は「授業がまったく分からない」とか「教えてもらっていないことがテストに出てくる」と不満を言っていました。
そういう愚痴を言う生徒でもラーマン氏の人生には敬意を払っているようで、「君たち、人生は方程式なんだよ。投入した分だけ得ることができる。何も入れなければ、何も得られない」という彼の言葉をしっかり受け止めているようです。
イラク生まれのラーマン氏は、『凶暴(vicious)』というリング名のボクサーだったことがあるのです。
その彼がオレゴン州立大学に入学するため生まれ故郷のイラクを後にしたのは1960年代後半でした。ニューヨーク市から長距離バスに乗ったとき手元に残ったのは、たった6ドル50セントだったそうです。大学に到着するまでの6日間に彼が口にしたのは停車場で買ったリンゴ数個とポップコーン1袋だけで、到着してすぐに授業料と生活費のために就いたのが木材伐採人のアルバイトでした。腕や生命を失うものが出るほど危険な仕事だったのですが、だからこそ収入も良く、大学に通うかたわら1日12時間半、週に7日間働いたのだといいます。
ボクサー、治安判事、公証人、仕立屋、調理師、ビール工場の機械工、木材伐採人、トラック運転手、米国陸軍の統計専門家、私立高校の数学教師、高校のドロップアウトを集めた学校の教師……、ととても一人の人間の人生とは思えない経歴を持つラーマン氏が最も生き甲斐を覚えたのが、レキシントン高校で数学チームを教えることでした。
「イラクには、すばらしい頭脳の努力家がたくさんいます。けれども、中央政府に知り合いがいなかったら、何者になることもできません。決して報われないのです。けれどもアメリカでは努力には意味があります」とラーマン氏は言います。
2000年にホワイトハウスでクリントン大統領から大統領奨学生基金の「卓越した教師賞」を受け取ったラーマン氏は、「この国では、誠意をこめて一生懸命努力すれば報われる」と生徒たちに語りかけます。レキシントン高校在学中に「大統領奨学生賞」を受賞したユンジョン・リュウが、「私にもっとも影響を与えた教師」として推薦した彼は、「努力の価値を伝える」という意味で、数学ができない生徒にもインパクトを与えているのです。
この二人の教師の個人的な努力が、「レキシントン公立学校の数学教育は優れている」という評判を広め、数学教育に興味を抱く保護者(子ども)がレキシントン町に移住するようになり、そのプレッシャーでその他の学校も優れた数学教師を雇用する努力をし、数学教育のシステムを改良していったのです。
最初のうち数学教育に力を入れていたのはダイアモンド中学だけでしたが、クラーク中学のダイアモンド中学へのライバル心は年々強まり、クラーク中学でも優秀な数学教師が雇われ、彼が率いる数学チームは徐々に力をつけてゆきました。そして、モスカ氏がダイアモンド中学を辞めて数年後には、万年トップだったダイアモンド中学の数学チームはクラーク中学にトップの地位を明け渡すことになったのです。
エヴァグリオ・モスカ氏とサル・ラーマン氏を思い出すとき、私は深い尊敬と同時にある種の悲しみを感じずにはいられないのです。
モスカ氏はレキシントン公立学校システム全体の数学ディレクターの職を望んでいたのですが、待ちきれなくなって他の町からの誘いに応じることに決めました。ラーマン氏は「いつかレキシントン町に住みたい」と願っていたのですが、シングルペアレントの彼が教師の給与でこの町に家を買うことはできず、夢を果たせないまま引退しました。「数学に強いレキシントン公立学校」の卵を温め、何十年もかけて産んだ二人なのに、その恩恵を受けている保護者の多くは彼らの努力をまったく知りません。そして、苦労に報いる努力もしていないのです。
むろん二人にとっても最も重要な人たちは、彼らを一生忘れないでしょう。
「全米数学協会(The Mathematical Association of America)」が毎年全米でもっとも優れた数学教師に与える「Edyth May Sliffe」という賞があります。対象は高校教師のみ(現在は中学も含む)で、ひとりの教師が一生に二度までしか受賞できないという規則です。でも、ラーマン氏はなぜか三回も受賞していますし、モスカ氏は中学校の教師なのに受賞しています。
ラーマン氏とモスカ氏を推薦したのは、全国大会で優勝した数々の教え子たちです。モスカ氏を推薦する次の文章は、簡単ですが多くのことを物語っています。
「エヴァグリオ・モスカ先生は、レキシントン高校チームの成功の陰の英雄(unsung hero)です。直接私たちに情熱を与えてくれただけでなく、私たちは彼が長年にわたって貢献してきた数学プログラムの恩恵も受けてきたからです」
生徒たちが書いたように、モスカの貢献は「unsung」、つまり英雄として表だって賞賛されていません。モスカ氏は「生徒が知っていれば、私はそれで十分」と言うことでしょうが、モスカ氏が去った後のダイアモンド中学の数学チームの成績はもっと深刻な問題を提示しています。
彼が去る前のダイアモンド中学の数学チームは州大会で優勝するのが「あたりまえ」になっていました。モスカ氏の「陰の英雄」としての努力が見えないから、なくてもそのまま続くものだと思い込んでいた人が多かったのではないかと思うのです。彼に「数学ディレクター」のポジションを与えなかった公立学校の責任者もそうでしょう。
私は8年前にモスカ氏が移民について語っていたことを思い出すのです。
モスカ氏が気づいたのは「数学競技に参加するのは移民一世が多い」ということでした。競技を終えた子どもたちを親が迎えにくる駐車場では、いろいろな言語が飛び交っていて、英語がマイノリティになるそうです。移民はこんなところでもアメリカの血を新しくし、活気づけているのです。
モスカ氏は「私たちイタリア移民もかつて非常に働き者だったのですよ。でも、二世、三世、とアメリカにいる時間が長くなると、努力を忘れてしまい、怠惰になるようです」とも言っていました。つまり、安定して楽になると努力の価値が見えなくなり、情熱や意欲が失われて行くというのです。
私たちは多くの場面で、うまくいっている現況を「あたりまえのもの」として受け取っています。それを維持するために努力している人たちがいることを忘れ、うまくゆかないことばかりに注目し、非難しがちですが、そのために大切なものが失われてしまっても、それに気づくことさえないのです。
次の章では、努力している人たちが苦しい立場に立たされた出来事をお話ししようと思います。
(つづく)
次回は、9章 努力していても「不祥事」は起こる
*注記
この記事は、主に1998年から2006年にかけて私がマサチューセッツ州レキシントン町の公立学校の関係者、保護者、生徒を取材して書いたものです(その後の取材による加筆あり)。公式記録に実名が出ているために隠す必要がない人と許可を得ている方人は実名です。場合によっては許可を得ている方でも仮名あるいはイニシャルの場合があります。
登場する方々の肩書きと年齢(学校の学年)は、取材当時のものです。
ゆかりさん、
補足の説明ありがとうございます。それを聞いてさらにレキシントン高校のお話をもっと読みたいと思いました。来週も楽しみにしています。
投稿情報: アリゾナ | 2012年7 月27日 (金) 09:59
アリゾナさん、
ありがとうございます。数学だけでなく、他にも多くの分野で良い先生を取材しているのですが、すっきりさせるために一番分かりやすい例をご紹介しました。
レキシントンが理数系だけに力を入れているという風には誤解されないよう願っています。
社会学のほうが優れた先生が多いと言う保護者は多いので。
投稿情報: 渡辺由佳里 | 2012年7 月27日 (金) 03:48
この章はとても興味深かったです。すばらしい先生方の才能と熱意が影にあったのですね。しかし・・・と続く、次回のリポートも楽しみにしています。
投稿情報: アリゾナ | 2012年7 月27日 (金) 01:12