京大の入試カンニング事件のことを知ったのは、ツイッターでのことでした。
パナマから戻って来て、久々にツイッターでパナマ報告を通知したら、ツイッター上はカンニングの話題で埋まっていました。
でも、入試というのは、たいていの大人が体験したものですし、子どもを持つ親にとっては他人事ではありません。ですから身近な問題なんですよね。
いろいろ思うところはあるのですが、まず「アメリカの大学入学制度が日本より楽」というのは神話もよいところ。SATが満点でも学校の成績が良くても、それだけでトップ大学に入るのは無理ですから、日本よりずっと大変です。大学入学専攻システムについて以前まとめたものがありますから、そちらをご覧ください。
まず、米国での状況を簡単にご説明します。
●米国でのカンニングの実態
ブランダイス大学で心理学を教える友人の誘いで、「Race to Nowhere」というドキュメンタリー映画を観てきました。米国でトップ大学に入学するための子どもたちのストレスを描いたもので、ブランダイス大学で鑑賞し、ディスカッションにも参加しました。
驚いたのは、米国の高校生(9年生から12年生)の95%が何らかの形でcheatingしたことがあるという統計です。宿題をうつさせてあげたとか、論文を手伝ってもらった、といったレベルのものもありますが、テストのカンニングに直接かかわるのが64%です。
あまりにも多いので、高校生の娘に「ほんと?」と訊ねたら、「テストの日程が異なる場合、他のクラスの子に『何が出た?』と訊ねる程度のcheatingを含めたら95%ってのは正しい数字だと思うよ」とのこと。
でもトップレベルの生徒はテストでcheatingはしない。自分の答えのほうが正しいと思っているから。そして、みつかったら成績に影響して、大学専攻におおいに不利になる。
米国でトップの大学に行くような子は、だいたい合理的なのですね。
●予防策
米国のSATはそういう学生心理をすでに考慮に入れているので、設問がランダムになっています。隣りの生徒とは質問が異なるので、答えをコピーすると不正解になります。カンニングができない仕組みなのです。
また、リンクで説明したとおり、米国の大学が最も重視するのは高校の4年間を通した成績です。
これには、宿題、論文、テスト、授業中の態度、などが反映しますから、これをカンニングだけでなんとかすることは不可能なんですね。
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カンニングについて特に書くつもりはなかったのですが、朝日出版社の赤井茂樹さんにお送りいただいた朝日新聞の「オピニオン」(2011.3.5)を読み、思うところがあったので、思いつくままに書かせていただきます。
まず、「大学入試は、様々な問題を抱えながらも、今では数少ない、公正さを担保された競争です。簡単にカンニングが行われることによる社会的なダメージは大きい。」「 カンニングがバレたら、大きく報道されて社会的なリスクを負うと認識させたことは、今後、不心得者を生まないために有効です」 という小田嶋隆さんの意見について。
これは正論ですが、大学入試のカンニングを大げさに叩くことを「公正さを守る機会」ととらえるのはどうかなあ、と感じました。
公正さって、子どもが生まれたときから、親や周囲の大人たちが日常的に身を以て教えることじゃないかと思うのです。「やるな」と怒ったり、何かが「バレた」ときだけ大げさに罰するのではないでしょう。本当に、こんなところにしか「公正さ」が残されていないのでしょうか?もしそうなら、そちらのほうが大問題。私は、Walk the Walkだと思っています。
それに、大学入試のカンニングを怒ってる人たちは、これまでの人生でちゃんと「公正」を実行してきたのでしょうか?私は、カンニングはしたことはないし、「公正」を心がけているつもりだけれど、潔白な人生ではありません。他人の論文書いてあげたことはあります。実習が終わる前に論文の9割を書いてしまうなんてしょっちゅうだったし...。
私は この「オピニオン」の中で、小飼弾さんの意見に一番賛同しました。
実社会では「自分で問題を解く力」と、「人の力を借りる」ソーシャルな能力の両方が求められます。特にネットの発達で、助力を受けられる範囲が広がったので、ソーシャルな能力の重要性が大きくなっている。問題を整理して伝えるだけでもけっこう大変だし、集まった回答から有用なものを取捨選択するリテラシーも必要になる。
同感です。
そもそも、「自分で解く力」だけを測ることが公平なやり方なのか。難関校の入試問題は、高校の普通の授業を受けただけでは解けないものが多い。私立の中高一貫校の子や、金をかけて塾通いをしていた子が圧倒的に有利になる。極端にいえば、親の経済力で決まってしまう。
これもそうですよね。
本当にカンニングをなくしたいなら、パソコンでも何でも持ち込み可のオープンな試験にして、ネットからの情報も参照しながら、単なる引き写しじゃないユニークな解答を出せる学生を選べばいい。
ここの部分で思い出したのが、開高健氏の「悠々として急げ」に登場した「ノミ博士」坂口浩平教授の生物学のテストです。教科書持ち込み可での論文書きでしたが、全然勉強しなかった私は見事に無知。テストの回答は論文というよりもサイエンスフィクションでした。
それに対して先生は、怒るどころか、「生物学的にはめちゃくちゃですが、面白かったので『良』をあげました」と笑顔でテストを返してくれました。そして自宅にお招きいただくほど仲良くなったのです。
入試にせよ大学にせよ、人生には「まったく公平で公正」なんてものはありませんし、それが人間の能力を正確に判断するものなんかではないのです。
カンニング事件で思うことですが、危険なのは、「入試を公正にできる」「学生のレベルを試験(あるいは米国のやり方でも)で、正確に判断することができる」という幻想じゃないかと思うのです。そして、有名大学への過剰なブランド意識と信頼。
そういう幻想を抱いていると、親は子どもを追いつめるし、失敗すると死にたくなるし、敗者復活戦を探そうともしなくなる。それくらいなら、カンニングをしてでもサバイバルしようと考える。それを責めたって、物事はよくなりません。
だいたい、日本にせよ米国にせよ、トップ50くらいの大学には「テストの点を取るテクニックはあるが、深い知識や創造力がない子」と「点を取るテクニックはさほどないが、非常にクリエイティブで知性がある子」が混じっています。そして、後者のほうが後に面白いことをやりとげます。
大学で人生は決まらないのです。
大学入試では完璧に落ちこぼれの私ですが(その前にいろいろと心理的に崩壊してたので)、そこで学ぶ機会を失っても、後で何度も学ぶ機会はやってきました。巷が信じるところの「良い大学」に入っていたら、もう少しある種の知識は深くなっていたと思いますが、落ちこぼれたゆえに得た「自由さ」のために、今の私が存在するのです。
「落ちこぼれ」になったら、それをチャンスと考えればいいのです。「失敗」はチャンスなんですよ。
「失敗なんか、こわくない」と早いうちに知るのは、決して悪いものではありません。
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