本書をお送りくださった朝日出版社の赤井茂樹さんのご指摘で、読み直したところ、私が「読み違え」をしていたことが分かりましたので、追記、訂正いたしました。
この本ほどレビューを書くのを躊躇した本はありません。
というのは、本書の「はじめに」に書かれているように、「なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか」について正直な意見を語ることには、著者の内田氏の言葉を借りると次のような罠があるからです。
ユダヤ人問題の根本的なアポリアは「政治的に正しい答え」に固執する限り、現に起きている出来事についての理解は少しも深まらないが、だからといって「政治的に正しくない答え」を口にすることは人類が犯した最悪の蛮行に同意署名することになるという点にある。政治的に正しい答えも政治的に正しくない答えも、どちらも選ぶことができない。これがユダヤ人問題を論じるときの最初の(そして最後までついてまわる)罠なのである。
にも関わらず、「反ユダヤ主義」を分析することで、「人間が底知れず愚鈍で邪悪になることがある」のはどういう場合か、を語ろうとしていることが、本書の最大の魅力です。「私家版」ゆえの大胆な発想や仮説も、知的なスリルに満ちていて、読み応えがある本です。
良書だということは、小林秀雄賞も含めて既に周知の事実ですから、ここでは、異論に的を絞って述べさせていただこうと思います。
私は、ユダヤ人組織として有名な名誉毀損防止組合(Anti-Defamation League)が作ったプログラムNo Place For Hateの町の運営委員だったことがあります(詳しくは「バトルグリーン」をお読みください)。ゆえに、前述の罠にすっかりはまってしまうのですが、それはお許しいただきたいと思います。
まず、「ユダヤ人とは誰のことか?」についてです。
「ユダヤ人は存在しない。それは幻想である。」という部分は、何度その前後を読んでも納得がゆきませんでした。思考の経路は非常に面白いし、「なるほど」と思わせるところは流石です。でも、たとえば189ページでサルトルとレヴィナスの定義を比較して「ユダヤ人とはある種の遅れの効果だということである」という部分などで、「それはいくらなんでも...」と現実に引き戻されてしまいます。
サルトルは「反ユダヤ主義者がユダヤ人をつくった」と見立てます。そのような「歴史的状況」、つまり現在に至る社会関係(の歪み)が根絶されればユダヤ人も消滅する、と解放への展望を語ったのでした。それは無理筋ですよ、というのが内田先生の議論の出発点ではないでしょうか(赤井氏の意見)。
読み直して見ると、確かにそうでした。「ユダヤ人は存在しない。それは幻想である。そういうことにしよう」とは、まずいったんサルトルの命題を受け入れて考えてみよう。だが、それには無理がある、ということです。
どのような歴史的な経緯があったかは、もう誰にもわからないにしても、ユダヤ人は有責性、すなわち「犯していない罪について罪状を告白する」ということになった。「この「不条理」を引き受けられるほどの思考の成熟を集団成員へのイニシエーションの条件に課した」とあります(224-225頁)(赤井氏の意見)
これも確かにそうです。
そして新たに「これは非常に納得できる!」と膝を打った部分があるのですが、それは、分かりやすいように最後に追記します。
個々のユダヤ人は、(レヴィナスの定義ほど深刻ではないにしても)「神に選ばれた民」として自ら「私はユダヤ人だ」と考えることで「ユダヤ人」として存在するのだと私は思っています。 多くのユダヤ人は本書のように葛藤することなく、生まれつき「ユダヤ人であること」を誇りに思い、自ら進んで「私はユダヤ人である」と手を挙げ、世界の「ユダヤ人人口」に加わっています。つまり数字に表れているユダヤ人の数は(少なくとも米国では)自己申告です。
知人のユダヤ人たちは、子どもたちを幼いときからSynagogueに通わせるだけでなく、夏には(ユダヤ人の子ども達が自嘲的に「Jew Camp」と呼ぶ)泊まり込みのキャンプに親元を離れて1ヶ月以上参加させます。ティーンになれば、イスラエルにも行かせます。そうやって「ユダヤ人であること」を考えさせ、身につけさせるのです。
迫害されてきた民族であるからこそ、国籍を超えてアイデンティティを継続させ、団結する必要を感じているからかもしれませんが、「ユダヤ人としての誇り」を無視することはできません。彼らは、みずから選んで「ユダヤ人」であるのであり、反ユダヤ主義者に「ユダヤ人」をdefineされることは、徹底的に拒否するでしょう。
ユダヤ教徒とキリスト教徒の結婚はよくあります。私が知る限り、すべてのケースで男性がユダヤ教の場合には「子どもをユダヤ人として育てる」と約束させられていますが、男性がキリスト教徒の場合はそれがありません。
ではなぜ、「ユダヤ人は嫌われるのか?」という難しい問いはどうでしょう。
著者の内田樹氏は、p212にこう書いています。
私がこれから書くのが、私に唯一納得のゆく答えである。
それは「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりにも激しく欲望していたから」というものである。
大胆な意見です。でも次の部分を含め、すんなり理解できる読者はそういないでしょう。
反ユダヤ主義者がユダヤ人を欲望するのは、ユダヤ人が人間になしうる限りもっとも効果的な知性の使い方を知っていると信じているからである(218ページ)。
私が興味深く感じたのは、ユダヤ人の中にそう信じている人がけっこう多いということです。2010年ブッカー賞を受賞した「The Finkler Question」は英国のユダヤ人作家による「ユダヤ人とは何か?」を問いかける小説で、主人公は「ユダヤ人になりたい非ユダヤ人」の男性でした。けれども、私はこの主人公の思考にまったく説得力がないと感じました。というのは、そう信じているユダヤ人に会ったことがあるいっぽうで、そういった白人男性には一度として会ったことがないからです。ユダヤ人が信じているほど、非ユダヤ人はユダヤ人の知性を「欲望」はしていないのではないでしょうか?
これから述べるのは、非常に狭い体験を通しての市民レベルでの「私家版」の意見です。私のそれはもっと単純なものです。
現在の米国の「反ユダヤ感情」は、「ユダヤ人に支配されることで自分たちが馴染んだ住み心地の良い社会を異質なものに変えられてしまう恐れ」だと私は思っています。
これもまた日本人には分かりにくいと思います。
そもそも、「異質」というほど、キリスト教系の白人とユダヤ人は異なるのでしょうか?
個人差があることを前提にステレオタイプを語ると、ユダヤ人はまず教育を重視します(アジア人とよく似た価値観で、数学、音楽、語学重視。点数主義)。社会正義のために貢献する人も多いです。彼らにとっての「知性」は「徳」に近いものです。内田氏が「端的に知性的なもの」と表現された特長です。
子どもたちに、弁護士、銀行家、学者、医師、になるよう押し付ける傾向があるのも、内田先生が本書で解説されている歴史的背景もありますが、それらが、権力 や影響力を持つ職業だという事実も忘れてはなりません。政治家や、それ以上に政治家のアドバイザーが多いのも事実です。
私は、ユダヤ人と アジア人が多い町に住んでいるので、ユダヤ人の知人や友人が多く、町の委員会で一緒に仕事をすることもあります。彼らの良いところは、教育熱心で社会正義 を信じる人が多く、町や公立学校をしっかり支えるところです。彼らのおかげでこの町は私が住みやすい場所になっています。それには非常に感謝しています。
いっぽうで、彼らは身体を鍛えることや、隣人に親切に接することや協調性を持つことはあまり重視しません。キリスト教徒のユダヤ人に対する苦情は、「利己主義すぎる」「押しが強すぎる」といったものです。町のボランティアをしていると、そういったユダヤ人が多いことは認めざるを得ません。わが子の成績が悪いと学校に怒鳴り込んだり、クラスを変えるように要求したり、学校のコンサートで「既に税金を払っているのに、なぜチケット代を払わねばならないのだ?」と文句をつけたりするのは、必ずといって良いほどユダヤ人か中国系移民(他のアジア系移民からは経験したことがない)の親です。わが子さえ良い成績を取って、地位の高い職業に就けばそれで良い、といった考え方を隠そうともしないところに恐れを抱く人もいるのです。
政治的には私の考えに非常に近いのに、あまりにも利己的で優しさがなく、日常生活では友達になりたくないタイプのユダヤ人を沢山知っています。いっぽうで、非常に温和で優しく、友達になりたいタイプなのに、びっくりするような政治的立場を支持するキリスト教徒も沢山知っています(内田氏が103ページで書いておられる「あまり知的ではないけれど魅力的な人間」の部分と似ています)。
「反ユダヤ感情」は、「知性」よりもキリスト教が教える隣人愛を「徳」として重んじる人々が、「利己主義」で「押しの強い」ユダヤ人に支配されて、世界を変えられてしまうことを恐れるところから来ているのではないかと思うのです(それは、いつの間にかユダヤ人とアジア人が増えてしまったわが町の古い住民にみられるセンチメントに似ています)。
どの社会でも、異質なものを敵視し、排除しようとします。キリスト教の信念を基盤にした社会では、常に異教徒を排除しようとしてきました。それはユダヤ人に限ったことではありません。 欧州の歴史ではキリスト教内での異なる宗派が弾圧されてきましたし、米国だけでなく、キリスト教がマジョリティの国では、イスラム教徒への恐れや偏見、迫害は、ユダヤ人に対するものよりも強いのではないでしょうか。
私が肌で感じる「反ユダヤ感情」は次のようなものに類似しています。
1.冷戦時代のソ連と共産主義者に対する恐れと嫌悪。
2.80年代から90年代にかけて経済的に最強だった日本に対する恐れと嫌悪。
3.9.11の同時テロ以降のイスラム教徒に対する恐れと嫌悪。
4.飛躍的な経済成長を遂げている中国に対する恐れと嫌悪。
5.米国の治安と経済を劣化させるメキシコからの移民に対する恐れと嫌悪。
6.オバマ大統領(黒人が優先される米国を作る可能性がある指導者)に対する恐れと嫌悪。
「恐れと嫌悪」の対象はいずれも、マジョリティの白人キリスト教徒が受け入れがたい文化・習慣を持つ集団であり、「これまで自分が馴染んできた素晴らしい、安全な世界を変えてしまう可能性がある」集団です。
日本や日本人に、 「馴染みある米国」を覆される恐れはなくなりましたので、ジャパンバッシングも消えました。今はそれが中国への恐れにすり替わっています。
オバマ大統領に対して、なぜこれほどのデマや嘘、攻撃的な反対運動が起こるのかをつきつめると、「黒人が優先される米国」を恐れる白人の姿が浮かび上がります。そして、上記すべての恐れと嫌悪をいっしょくたにして、彼にぶつけようとする政治的な策略もあるようです。
けれども、これらの「恐れと嫌悪」と反ユダヤ主義との差は、「ユダヤ人」の与える脅威が他よりも決定的に強いことです。米国の白人マジョリティは、上記の1から6に対して、基本的に「優越感」を抱いていますが、ユダヤ人が本気になれば知性でも財力でも勝てないと実感しています。けれども、彼らの生き方を羨望しているわけではない。自分たちの生き方のほうが楽だと実感しているからこそ、征服されて価値観や生き方を変えることを強要される恐れを抱いているのです。私は、米国の「ユダヤ人嫌い」の人々からそんなことを感じます。
本書を読み直して「ここだ!」と思ったのが、p34の「ユダヤ人解放」に関する部分です。
このことばづかいは、「民族としてのユダヤ人」に対する「恐怖」や「畏怖」に近い感情をどこかに蔵している。「すべてを拒絶する」ことによって枯死させなければ、近代市民社会の統治原則を根本的なところで損なう可能性のあるものをこの社会集団が有しているという漠然とした気分がこの「解放のロジック」そのもののうちに漏出している。
これに似た迫害は、カトリックとプロテスタントの間でも行われてきました。統治者(国王)が変わるたびに異教徒は改宗を迫られ、拒否した者には残酷な処刑が行われました(絞首し、まだ死んでいない者の腸を取り出すといったもの)。けれども、ユダヤ人がキリスト教徒の異教徒と徹底的に異なるのは、P35にあるように、『追い払っても、追い払っても、「それ」が私たちにつきまとうことをやめない』からであり、『「それ」が視野にとどまる限り、私たちの存在根拠が絶えず脅かされているように感じられる』からなのでしょう。つまり、ユダヤ人たちは、変わることも、追いやられることも拒否する存在なのです。P36の『ユダヤ人は「ユダヤ人を否定しようとするもの」に媒介されて存在し続けてきた』という部分には異論があるのですが、「ユダヤ人を否定しようとするもの」によって、現在のユダヤ人文化が作られているということは否定できないと思います。
それは、P174の『「過剰な」ユダヤ人』の部分に通じています。ユダヤ人がかかわってきた文化的領域が桁外れに宏大で、彼らが成し遂げたイノベーションがあまりにも多種多様なのは事実です。そして、「民族的にイノベーティブな集団」に対して周囲の人々を圧倒する、というのも。このユダヤ人の過剰さが、上記で私が語ったことに共通しています。
この「過剰さ」は、迫害への「過剰反応」でもあるのではないかと思うのです。キリスト教徒たちが、統治者の改宗や統治者そのものの交代によりめまぐるしく改宗を迫られ、多くのものがそれに屈したにもかかわらず、ユダヤ人たちは、あえて不条理を引き受け、変わることを拒み、迫害に耐えて存続するために「知性」を鍛えることで対応したのです。(米国でもJFKが大統領になるまで、カトリック教徒は就職で同じような差別を受けてきたと聞きます。けれども彼らはユダヤ人のような対抗はしませんでした。この違いが興味深いところです。)その過剰反応がさらに周囲を圧倒し、忌み嫌われる、という筋書きです。
ユダヤ人論は、「卵が先か鶏が先か」のようなところがあります。内田氏の本からは、新たに学んだところが多々あり、何よりも思考のエクササイズになりました。けれども、読者に自覚していただきたいのは、どんなに優れた本を読んでも、それで「わかった」とは思わないほうが良いということです。
私は友人が何人いても「わかった」と思うことはありませんし、これからもわからないと思います。けれども、彼らが「ユダヤ人であること」を非常に大切にしているということだけは理解しています。
社会正義を貫こうと努力するユダヤ人の友人には深い尊敬の念を抱いていますし、家庭にまで浸透している「幼い頃から知性を鍛えるための訓練」には脱帽します。けれども、親が子どもに対して与える過剰ともいえる期待と家族内での激しい競争(アジア人にも共通する)には同情心を抱きます。それに押しつぶされて不幸になる子どもたちを知っているからです。
ユダヤ人の知性と富、他者によって変えられることを拒む強さは尊敬に値します。けれども、彼らが「羨望の的」にはならないのはなぜなのか?そして、「彼らに支配されたら、生活から喜びや楽しみが消えてしまう」と恐れられるような存在であるのはなぜか?
こういった問いを考えるたび、私は日本人として「反ユダヤ主義」を決して他人事として考えることはできないのです。
最後になりましたが、本書をお送りいただいた朝日出版の赤井茂樹さんにお礼申し上げます。
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