「幸せは満たされること」という前提で、「適当なところで諦めることから見えてくる幸せもあるんじゃないか」と提案する文章を読みました。
その方が言いたいことはよくわかります。
ただひとつだけ気になったのは、前提です。この前提で「幸せ」をとらえてしまうと、誰一人として幸せになれません。まずは、その思い込みが不幸の元じゃないかと。
「幸せ」とは、そうではなくて、日常の些細なことに美しさや喜びを感じることができる心の状態だと思うのです。
散歩の途中に観た夕焼けの美しさにじ〜んとしたり、手がけている仕事のことを考えるときに胸が踊ったり、好きな人や家族と一緒に食べるものが美味しいと思ったり、誰かを助けることに誇りや喜びを見いだせたり、助けてくれた人に感謝の気持ちを感じたりできる心の状態なのだと思うのです。
辛くて、苦しいときには、同じ人や物に囲まれていても、それが見えないし、美しいとも楽しいとも感じることができないものです。私自身がそうでした。
今の私は、ほぼ毎日森でジョギングをしていて、それが人生の楽しみのひとつです。それをNoteでエッセイに書いています。
この森の入り口は、わが家から500メートルの場所にあります。なのに、落ち込んでいて、不幸だったときの私は、毎日目にしていたのに足を踏み入れようともしませんでした。
こんなに美しいものが目の前にあったのに、見えていなかったのです。
でも、ほかの人が「こんなに美しいものがあるよ」と押し付けても、たぶん美しいとは思わなかったでしょう。私の心の状態がそうではなかったので。
じゃあ、そういう心の状態になるためにはどうすればいいのでしょう?
これは、簡単なことではありません。
ですから、それをいろいろな角度から書いたのが、『どうせなら、楽しく生きよう』です。
冒頭でご紹介した文章のように「諦める」ということについても書いています。でも、9章「前向きに諦める」に書いたように、私は異なる結論を導き出しています。この章は、春に電子書籍で自費出版した本にはない書き下ろしです。
お読みいただけると嬉しいです。
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