2011年3月11日に起こった東日本大震災の直後、災害を逃れた日本人の多くが「被災者のために何かをしたい」と感じたのではないかと思います。
けれども、その後情報の混乱が人々の不安と恐怖をかきたて、ネットでもマスコミでも憤りの声のほうが目立つようになってきました。
うっかり何かを言ったら、大量の見知らぬ人から攻撃される。
その殺伐とした雰囲気にいたたまれなくなった私は、しばし沈黙することを選びました。
でも、多くの人が混乱し、どうすればよいのか分からず、ただ焦っているだけのときに、
「いま、自分は何をするべきなのか?」を考え、行動した人々もいました。
そのひとりが、糸井重里さんでした。
糸井さんは、震災の3日後「ほぼ日刊イトイ新聞」のサイトで「東日本大震災のこと。」という特設ページを作られました。3月14日の記事はこちらです。
これを読んで、落ち着きを取り戻した人は少なくなかったと思います。
特設ページを作っただけでなく、糸井さんと乗組員(ほぼ日では社員のことをこう呼ぶ)たちは「被災地で自分たちは何ができるのか」を話し合い、被災地に何度も足を運びました。
震災からまだ半年も経っていない福島の警戒区域内で動物の保護を続けている人を手助けしたり、津波で亡くなった方々のお墓に参ったり、家の片付けや掃除をする「スコップ団」に参加されたりしたのです。それらの活動の記録は、このページで見ることができます。
震災直後に現地に向かった人々の大部分は、緊急状況が落ち着いたところで去ってゆきましたが、糸井さんは、震災から約8ヶ月後の2011年11月1日に気仙沼で「気仙沼のほぼ日」という支店を設立されました。ほぼ日にとっては、初めての支店です。
私はちょっと戸惑いました。
この支店が何のためのものか、よく分からなかったのです。
普通の「支店」とは異なり、本社のものを売ったり、本社の業務をしたりする店ではないようです。
気仙沼市で開催された「気仙沼さんま寄席」は大成功でしたが、3,489,597円という収益金は「目黒のさんま祭り」のサンマを買う費用にあてられます。私も知らなかったことですが、これまで「目黒のさんま祭り」のサンマは気仙沼市が出してきたとうことです。さんま寄席の成功で、震災後にもこうしてその伝統が守られたわけです。
気仙沼を活気づけ、「現地が忘れられないようにする」という大切な役割を果たし、気仙沼を支えたい人と気仙沼の人々を繫げる素晴らしいイベントでしたが、ほぼ日にとっては「持ち出し」が増えるばかりです。
でも、彼らには、「奉仕活動」のつもりはないようです。ちゃんと「仕事」にしてゆこう、という情熱も感じます。
「ほぼ日」にとっての「支店」の役割がどうしてもよく分からなかった私は、直接糸井さんに質問させていただきました。
飲み込みの悪い私がスカイプで1時間もお話しさせていただき、ようやくわかってきたのは、こんなことでした。
「気仙沼のほぼ日」は、壮大な目標があって生まれたものではなく、「ぼくらにできることがあるかもしれない」という謙虚な発想から被災地を訪問してきた糸井さんと、気仙沼の人々が「縁」でつながり、それが自然に発展したもののようでした。
「すぐに何か結果を出す」ための支店ではなく、その場に居を構えることで気仙沼の人と「仲間」になり、じっくりと、ゆっくりと、一緒に大切なものを育てて行くための場所なのでした。
その道しるべは「光」です。
現状はどんどん変化しますから、壮大なビジョンと緻密な計画を立ててしまうと、がんじがらめになってしまいます。そうではなく、やりながら希望の光が見える方向に向かって「できること」を考えて実行するというやり方なのでした。
そんなお話を聞いているうちに、震災直後に覚えた、現地に入って何かをやっていないことへの後ろめたさというか、申し訳ない思いが、再び私の心に蘇りました。
いくらお金を寄付しても、寄付金を集めるためのイベントをしても、なんだか「言い訳」のように感じて後ろめたく感じてしまうのです。
でも、ただ闇雲に現地に押し掛けても、迷惑だということは分かっています。
「私だからできること、そして継続的にできることをみつけたい」
そんな思いを、私はずっと抱えてきました。
そして、今年(2012年)の11月、ようやくそれを探す機会がやってきたのです。
けれども、それは私の勝手な想像とは異なるものでした。
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