11章 善意が正義に罰されるとき
10章でご紹介したレキシントン町の*No Place For Hate(文中NPFHと省略)プログラムは、2000年にスタートしたときから実り多い活動をしてきました。
町議会などでの討論を険悪なものではなく建設的にするためのガイドライン「Guidelines for Civil Discourse」を作成し、司会役を勤める人々を教育するワークショップ「Leading and Conducting Effective Meeting Workshop」を企画し、キング牧師の栄誉を讃える記念行事を運営し、警察官や消防署員が多様性のある住民に対応できるように「ディバーシティ・トレーニング」を行い、町で諍いが起こったときに即座に対応する「緊急対策チーム(The Incident Response Team)」を設立させ、前章のような危機にはコミュニティをまとめる指揮を取ってきたのです。
図書館との共同で行った企画では「ジョイ・ラック・クラブ 」や「砂と霧の家 」といったレキシントンの多様性ある住民を反映する映画をシリーズで上映しました。無料の映画より上映後のディスカッションを目当てにやってくる町民が多かったので、要望に応え、第二次世界大戦後からこの町に住むドイツ系一世やスペイン系二世とハンガリー系二世の中学生など幅広い文化背景と年齢層のパネリストを招いたパネルディスカッションを行いました。出席者から「こんなに興味深いディスカッションは初めて。またやってほしい」と大好評でした。
このように楽しい企画ができたのは、運営委員が気さくな「仲間」だったからです。
警察からの代表者、行政委員、教育委員、タウンマネジャー事務所と公立学校からの代表などが集まっているグループですが、互いをファーストネームで呼び合い、町の事情をざっくばらんに話しあえました。この場では何でも率直に語ることができ、それで誤解されたり攻撃されたりすることはありませんでした。それだけの信頼関係ができていたのです。
こんなに稀なグループが存在できたのは、前章でも登場した委員長のジル・スマイロウさんに人徳があったからだと私は感じていました。彼女は名誉毀損防止同盟(Anti-Defamation League 略称ADL)のマサチューセッツ支部にも属しているユダヤ人です。前章でご紹介したような人をまとめるテクニッックはNPFHプログラムが提供したトレーニングから学んだそうですが、彼女やADLマサチューセッツ支部がユダヤ人のアジェンダを委員会に持ち込んだことは一度もなかったのです。
差別団体が去り、エスタブルック小学校の訴訟問題が決着した後、NPFH運営委員会は、教育プログラムを企画したり、小さな町民の諍いに対応したりしていました。私が公立学校のコーディネーターと相談を重ねながら練っていたのは、小中学生に町の高齢者を取材させて個人史を残すプログラムでした。
そんなとき青天の霹靂と呼べる問題が発生しました。
2007年6月、レキシントン町とNPFH運営委員会は、アルメニア系アメリカ人の団体から「NPFHプログラムを廃止し、ADLと手を切れ」という強い要求を受け取ったのです。
彼らの要求には複雑な歴史と国際政治が絡んでいるのですが、事実確認が難しいので私が理解できた範囲で簡単に背景をご説明します(それ以上はご自分で調査してください)。
トルコ共和国の前身であるオスマン帝国で、第一次世界大戦中に少数民族であったアルメニア人が迫害され、強制移住や戦争、虐待で大量に死亡しました。資料により差がありますが、この「アルメニア人ジェノサイド」では60万人から180万人の(主にキリスト教徒の)アルメニア人が死亡したと信じられています。
第二次世界大戦においてドイツがユダヤ人に行った行為は「ジェノサイド(genocide)」として国際的に認められていますが、オスマン帝国によるアルメニア人の追放と大量殺害の史実はあまり知られていません。私も含めてNPFH運営委員会のメンバーのほとんどがこのときまで知らなかった歴史です。
アルメニア人はオスマン帝国からトルコ共和国に至る「トルコ国家」が一貫した責任を有すると信じており、現在のトルコ共和国にジェノサイドの事実を認めて謝罪させる国際的なキャンペーンを続けています。
2007年、アルメニア系アメリカ人団体はナンシー・ペロシ下院議長(当時)を筆頭に十分な数の議員の支持を獲得し、トルコ共和国に謝罪を要求する下院決議案の作成にこぎつけました。
この下院決議案は、日本に対する「従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議」と同様の決議です。他国のことですから法的に拘束はまったくないのですが、トルコ国家によるアルメニア人虐殺をアメリカ合衆国が公式に批判することに意義があるわけです。
アルメニア系アメリカ人団体がNPFHプログラムをターゲットにしたキャンペーンを開始したのは、トルコ共和国にジェノサイドを認めるよう要求する「アメリカ合衆国下院106号決議」が下院外交委員会において賛成27票対反対21票で可決され、10月に下院で採決される予定になっていた時期です。
賛成39票対反対2票で可決された「従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議」に比べ、106号決議に反対票が多いのを不思議に思われるのではないでしょうか。
なぜかというと、イスラム教国のなかで最も西側諸国寄りのトルコはアメリカ合衆国にとって中東対策上重要な国だからです。アメリカ合衆国と特別な関係にあるイスラエルにとっても重要な国であり、しかも関係が非常に脆弱なのです。
当時のライス国務長官は「(可決すると)トルコとの関係を著しく損なうだろう」と可決しないよう下院にアドバイスしました。
このような状況で、アルメニア系アメリカ人団体はイスラエルと強い絆を持つADLに対して「オスマン帝国によるアルメニア人のジェノサイド」を公式に認めるよう要求しました。しかし、ADL本部(ディレクターのAbe Foxman氏)は、イスラエルとトルコ共和国との関係が悪化することを怖れてそれを回避していたのです。そこでアルメニア系アメリカ人がADLに政治的圧力をかけるために取った戦略が、ADLが開発したプログラムのなかで最も成功しているNPFHを潰す「No Place for Denial」というキャンペーンだったのです。
スマイロウさんを中心とするNPFH実行委員会のメンバーは、レキシントン町と近隣の町に住むアルメニア人グループの代表と会って事情を聴くことから始めました。
彼らの訴えを聴いた後でスマイロウさんは、こう提案しました。
「私自身がこの歴史にはまったく無知ですし、ほとんどの人がそうだと思います。多くの住民にアルメニア人虐殺の歴史を知ってもらうために勉強会や講演会を開いてはどうでしょうか?代表がNPFH運営委員会に加わっていただくか、恊働で企画しましょう」
けれども、アルメニア人の代表者は「アルメニア人ジェノサイドを認めないADL本部に強いメッセージを与えるには、町がNPFHプログラムを廃止し、ADLと手を切るしかない。それ以外の提案は受け入れない」とまったく譲歩しません。
スマイロウさんは、今度はADL本部とディレクターのAbe Foxmanにアルメニア人ジェノサイドを公式に認めるよう求めて解雇されたマサチューセッツ支部長を招いて話し合いの機会をもうけました。
「ADL本部について疑問を抱いている支部の人々はいます。ADLを変えるためには、マサチューセッツ支部と協力して内部から変えるほうが効果的です」
元支部長がそう誠実に語りかけても「あなたは60年代に公民権運動をしていた黒人にも『もう少し辛抱しろ』と言うのか?侮辱している」と敵意のこもった答えが戻ってくるだけです。
ADLの支部が作ったプログラムですが、金銭的な援助は受けていません。また、NPFH運営委員会のメンバーにはユダヤ人もいますが、キリスト教の牧師や私のようにアジア人もいる多様性がある集団です。また、政治的には常に中立の立場を取るよう心がけてきました。私はむしろ「トレーニングなどで協力するが、口は出さない」というADLマサチューセッツ支部の態度に尊敬を覚えていたのです。
私たちがアルメニア人団体の代表者らに理解を求めたのは次のようなことでした。
1)レキシントンNPFHはアルメニア人ジェノサイドを認める。私たちは、ホロコーストを体験し、二度とそのようなことが起きないように作られたADLが、政治的な理由でオスマントルコ帝国によるアルメニア人虐殺を「ジェノサイド」と呼ばないことは間違っていると考える。
2)それについて、レキシントンNPFH運営委員会は強く抗議する手紙を出す。
3)NPFHは、ADLの本部が開発したプログラムではなく、マサチューセッツ支部がマサチューセッツ州地方自治体と共同で開発したものである。それが非常にうまくいったために全米に広がったのである。
4)また、マサチューセッツ支部長はADLとAbe Foxmanにアルメニア人虐待をジェノサイドと認めるよう求め、解雇されている。NPFHを作った人々はこのようにアルメニア系米国人の立場を支持し、毅然とした態度を取っている。
5)州の58の地方自治体が採用しているNPFHプログラムはこれまで住民のために役立ってきた。「ADLと関わりがある」という理由だけでADLに圧力をかけるために排除させるのは、コミュニティにとって損失である。
6)ADL本部については、支部の人々も疑問を抱いていることが多い。ADLを変えるためには、むしろマサチューセッツ州支部と協力して内部から働きかけるほうが有効ではないか。
7)レキシントンNPFHは、住民たちがアルメニア人虐殺について学ぶ企画を手伝う。
このような話し合いが続いていた8月21日、ADL本部のFoxman氏は「ジェノサイド」を認める内容の声明を出しました。
「もしジェノサイドという単語がそのときに存在していたならば、ジェノサイドと呼ばれているべき史実である(If the word genocide had existed then, they would have called it genocide.)」と実際に虐殺が起きたことを認め、「私たちはトルコの友人として、トルコがこの暗黒の歴史と対峙しアルメニア人と和解するよう強く勧める。それをトルコが理解してくれるよう願っている(I hope that Turkey will understand that it is Turkey's friends who urge that nation to confront its past and work to reconcile with Armenians over this dark chapter in history.)」とトルコ政府への要望を語っています。
しかし、末尾には「下院決議案は逆効果だと信じている」とも記されています。
アルメニア系アメリカ人団体はこの曖昧な声明に不満を示し、「町がNPFHプログラムを廃止し、ADLとの関係を断つ」こと以外は受け入れないという態度を変えませんでした。
NPFH運営委員会の委員長スマイロウさんは本職も手につかない状態でほぼ毎日この問題に対応していたのですが、それでも敵意ではなく誠実な態度で対応していました。それなのに、その直後にはインターネットに「レキシントンNPFH運営委員会は不誠実だ」と書かれてしまいます。
彼らを支えているのは全国組織ですからメディア対策にも長けています。
アルメニア系の住民が最も多いウォータータウン町を皮切りに、連絡を取っていた他の町のNPFHも次々と消えてゆきました。
公開で行われる会議には、レキシントン以外の町からもアルメニア人たちが押しかけるようになり、そこでは老いたサバイバーやその子孫たちが憤りや悲しみをこめて体験談を語るシーンが繰り広げられました。
最初は「大丈夫。最後までサポートするから」と約束していた行政委員たちも、グループの揺るがない戦闘姿勢に徐々に疲弊してきました。
「レキシントンのNPFHに非がなくても、アルメニア人虐殺の歴史と結びついた悪評がたってしまうと、町民からこれまでのような信頼感を得ることができない」と揺らぐ心境を口にするようになったのです。
こういった胃が痛くなるだけで実りのない会議を4ヶ月ちかく続けた10月15日、行政委員会は、アルメニア系アメリカ人の要求に応えてNPFHプログラムの運命を決める公聴会を開きました。
この公聴会は、すぐさま「アルメニア人ジェノサイドを否定するADLと関係を持つNPFHにはモラルがないので人権を取り扱う権利はない」という「糾弾の場」になりました。次々と繰り広げられる糾弾には拍手がわきおこります。
何も知らない人がこの公聴会に来たら、NPFH運営委員会もレキシントン町もモラルが欠如していると思うことでしょう。でも、「モラル上の義務」を訴えるこの集団のなかに、エスタブルック小学校に関する事件で「私が信じる宗教のモラル上、同性愛を擁護することはできない」と援助を拒否した人がいることを、私ははっきりと覚えているのです。
長い公聴会もようやく時間切れになり、行政委員会が存続の結論を出す時間になりました。敵意に満ちた人々を前に、私たち運営委員会のメンバーはホールの前方で聴衆に向かって一列に並びました。
魔女裁判にかけられた民間治療師の気持ちが少し想像できる気がしました。早くこの時間が過ぎ去ることを祈っていたとき、ひとりの女性が立ち上がって「私もひとこと言わせて」とマイクを握りました。
差別団体が去った後に歴史的なグリーンに集まって祝ったとき、「この町に住んでよかった。ありがとう」と泣きながらスピーチしたレズビアンの母親ボニーでした。
すぐ感情的になるボニーはこのときも目に涙を浮かべていましたが、驚いたのはそれではなく彼女の次の言葉でした。
「こんなに気の毒な人々の気持ちは無視できません。町はNPFHと手を切るべきです」
それまで静かに隣に立っていたスマイロウさんが、初めて苦々しくこうつぶやきました。
「ボニー、彼らは将来あなたを守ってはくれないわよ」
こうしてアルメニア系アメリカ人グループは地方自治体にNPFHプログラムを排除させ、それを支えて来た人々を追いやることには成功をおさめました。でも、それにより何を達成したのでしょうか?
「アメリカ合衆国下院106号決議」は予定されていた2007年11月に下院で可決されませんでした。政治的な影響を怖れた議員たちが支持をとりやめたからです。オバマ政権下でも、「可決するとトルコとの関係を著しく損なう」という見解は変わっていません。
ADL本部はNPFHプログラムが打撃を受けても、とくに困ってはいる様子はありません。
レキシントン町の行政委員会はNPFHプログラムを廃止することに決め、そのかわりになる人権委員会を作ることを約束しました。しかし、NPFHプログラムを潰すために活躍したアルメニア人代表が加わった特別委員会はこれまでリーダーとして不可欠な存在だったスマイロウさんを排除しました。
過去の運営委員会で唯一新しい「人権委員会」に招待された黒人のメンバーは、「私の倫理観に反する」と参加を拒否しました。したがってNPFH運営委員会のメンバーは、誰ひとり新しい人権委員会に残らなかったのです。
新しい人権委員会は毎年恒例のキング牧師の栄誉を讃える記念行事を引き継ぐつもりがないようなので、元NPFH運営員たちは草の根市民グループを作って細々と運動を続けているのです。
(つづく)
次回は、いよいよ最終回。12章「守るべきもの」
*NPFH(No Place For Hate)は、名前から連想させるように「憎しみやヘイトクライムがないコミュニティ」を作るための人権擁護活動とディバーシティ教育プログラムです。このプログラムは、ユダヤ人の人権を守るために生まれた人権擁護組織Anti-Defamation League(名誉毀損防止組合、ADL)のニューイングランド支部が、マサチューセッツ州地方自治体協会と共同で開発したものです。
NPFH運営委員会はそのプログラムを運営する委員会です。
レキシントン町のNPFH運営委員会は、行政委員会、教育委員会、警察、公立学校、タウンマネジャー事務所、青少年奉仕活動部などの町の主要組織の代表者、異なる宗教の聖教者協会Interfaith Clergy Associationの長、人権団体の代表、住民代表で構成されており、私も委員の招きで住民代表として加わっていました。
*注記
この記事は、主に1998年から2006年にかけて私がマサチューセッツ州レキシントン町の公立学校の関係者、保護者、生徒を取材して書いたものです(その後の取材による加筆あり)。公式記録に実名が出ているために隠す必要がない人と許可を得ている方人は実名です。場合によっては許可を得ている方でも仮名あるいはイニシャルの場合があります。
登場する方々の肩書きと年齢(学校の学年)は、取材当時のものです。
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