アメリカ初の女性副大統領候補であったジェラルディン・フェラーロ(Geraldine Ferraro)元下院議員のオバマ氏に関する発言が問題化し、彼女はヒラリー・クリントン陣営の財政委員会の委員を辞任しました。(写真はフェラーロ元下院議員/パブリックドメインのイメージ)
彼女の発言をそのままここに引用しましょう。
“If Obama was a white man, he would not be in this position. And if he was a woman (of any color) he would not be in this position. He happens to be very lucky to be who he is. And the country is caught up in the concept.”
「(オバマが白人男性であったなら、今の立場にはなかっただろう。もし、彼が人種にはかかわらず女性であったならば、今の立場にはなかっただろう。たまたま、彼の背景《父が黒人で母が白人であるということ》が非常に幸運なことであり、この国はそのコンセプトに夢中になっているのである)」
この部分の発言だけが注目されていますが、ここに至る前に彼女はメディアのヒラリーに対する過剰に厳しい批判とオバマ氏に対する甘さを次のように苦々しく語っています。
"I think what America feels about a woman becoming president takes a very secondary place to Obama's campaign - to a kind of campaign that it would be hard for anyone to run against," she said. "For one thing, you have the press, which has been uniquely hard on her. It's been a very sexist media. Some just don't like her. The others have gotten caught up in the Obama campaign.
彼女が正しいか、正しくないか、は別として、政治的に賢い対応は、候補者を守るために「自分が間違っていなくても謝ってしまい、辞任する」というものです。しかし、フェラーロ元下院議員は自分の発言が「黒人差別」であるという非難を完全に否定し、謝罪をしませんでした。女性差別の深さの指摘と、国とメディアがオバマキャンペーンのコンセプトだけに浮かれて応援し、ヒラリーを根拠なく攻撃しているという批判が故意にねじ曲げられており、自分が間違ったこと言っていない以上謝罪することも間違っているという彼女の強い信念によるものです。
ヒラリー・クリントン氏は、これで非常に難しい立場に立たされました。フェラーロ元下院議員は彼女にとって財政委員のメンバーというだけでなく、個人的に尊敬する親しい間柄です。しかし、ここで彼女をかばうのは致命的です。公的に「私は彼女の発言には賛成できない」という中途半端なコメントをするしかなかったのには、こんな背景があります。
しかし、舞台裏で2人が話し合ったのは間違いありません。昨日、フェラーロ元下院議員は財政委員会のメンバーを辞任しました。
さて、興味深いのは一般人の心境です。
今朝のCNNのQuick Vote(オンラインでの意識調査)の「フェラーロ元下院議員は謝罪するべきだと思うか」という質問に対して、54%が「NO」と答えているのは非常に興味ぶかい結果だと私は思いました。というのは、ブッシュ大統領や戦争に関する質問の結果は通常8割程度リベラルに傾くからです。ということは、リベラルの中でもフェラーロ元下院議員に賛成する者が多いということです。
差別をコンセプトとして理解するのと、実感するのは大きく異なります。
祖父が奴隷だったという知人の黒人男性にとっての人種差別と、宗教的にもアメリカ合衆国のマジョリティに属する裕福な中流階級で育った白人男性である私の夫が感じる人種差別は、まったく異なります。
私が会った何人かの白人は、法が強要するがために、職場で他の人種よりも能力が低い黒人を雇わなければならなかった経験を苦々しく語りました。有名大学は、黒人とヒスパニック系アメリカ人の数を増やすために、白人やアジア人よりも学力の低い者を受け入れます。これらの現実を「逆差別」だと感じている者も、アメリカ合衆国には多く存在するのです。しかし、ハーバード大学やイエール大学で学んだ黒人は、周囲の学生から「おまえは黒人だから入学できたのだ」とみなされ、対等に扱われなかった体験を語ります。
女性であるがために”男性の領域”で多くの障壁と戦ってこなければならなかったフェラーロ元下院議員にとっては、女性差別のほうが人種差別よりも強く感じたのではないかと私は思うのです。
差別というのは、その人がこれまで生きてきた歴史により非常に異なるものだということを、日本人はなかなか理解できないと思います。
ちび黒サンボやカルピスのシンボルについての日本での反対運動には、私は苦笑しか覚えませんでした。差別されている者は誰なのか、運動が成功して解放されるのは誰なのか、どのような差別意識が解消されるのか、それらを彼らは認識していたのでしょうか?
私はこう思いました。日本には日本にしかない特別な差別があり、もし運動に力を注ぐのであれば、それをまず解決すべきなのです。
さてこちらの人々が言いたくて言い出しにくい傾向があります。
それは、最近の選挙結果(黒人投票者の9割がオバマ氏に投票している)に対し、白人の間に一種の不安感といらだちが生じているということです。黒人が権力を握る、ということに対する白人優先主義者の不安は明らかですが、それ以外にも、候補の政治的立場を無視して「黒人だから」という理由だけで投票する者が国の将来を決めることへの不信感もあります。
また、ヒラリーの支持者の中には、長年黒人層のために尽力してきた実績があるクリントン夫妻よりも、(黒人層のために戦った)実績がほとんどないオバマ氏を「黒人だから」という理由だけで支持する黒人の投票者に対する失望と憤りも感じられます。
しかし、「女性だから」という理由でヒラリーに投票する高齢の女性たちも多いのです。ですから、フェラーロ元下院議員のようにコンセプトに熱中することを非難することもできません。
差別には、個人の体験、立場に加え、宗教、学問的背景、理念などが複雑に絡んでいます。決して一方通行ではありません。
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