気仙沼市のアンカーコーヒーで偶然お会いした律子ロビンソンさんは、実は、すでに間接的に繋がっていた方だったのでした。
気仙沼市と「縁」について、律子さんの言葉をそのままご紹介させていただきます。
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小野寺家のお母様のご実家は、私の実家と隣でした。
やっちさん(こちらの記事をお読みください)のお母さま(通称:かよちゃん)と私は10歳以上も離れていますが、幼少の頃はとてもお世話になりました。
今回の帰省で初めてかよちゃんご家族(旦那様とやっちさんのお姉様とやっちさんのお嫁さん)とランチをして幼少の頃の話題で盛り上がりました。
(多分、かよちゃんと最後に会ったのは40年以上も前だったのではないでしょうか?)気仙沼には高校の時までしか住んでいなかったので。ですから、やっちさんも紀子さんもお会いするのは今回が初めてでした。
20 年以上も前ですが、私がミネソタ州で経営していた旅行会社でアメリカ人の高校生(ミネソタの私立高校の日本語専攻の学生を対象)を気仙沼でホームスティさ せるという企画をした事があります。3週間の日本の文化を学ぶ旅行のハイライトに選んだ場所が私の故郷でした。その時にお世話になったのがやっちさんのご 両親です。ホームスティの学生さんを引き受けて下さいました。そのご縁でやっちさんがミネソタ大学に留学するきっかけになったと聞いております。やっちさ んがミネソタ大学に留学する頃は既に私はミネソタから東海岸へ引っ越ししておりましたので面識が無かったのです。(会社はそのまま運営しておりましたが)
アメリカ人の学生さんがホームスティしていた時期は引率の先生に添乗を任せておりましたので私は日本には行きませんでした。
私の実家経由で隣人、知り合い、多くの方にホームスティの学生さんを預かって頂き、お世話になりました。やっちさんも紀子さんも私の事はお母さまのかよちゃんよりお話を聞いていたようで良くご存知のようでした。
2011 年の震災で私の実家も全壊し、隣のやっちさんの大叔母さまも家ごと流されました。私の大好きな叔母さまでした。私の兄は最後の最後まで叔母さまの命を救いたくて側にいたようですが、断固として動こうとしなかったそうです。目の前に巨大な波が迫っているのに...。兄は仕方なく集落最後の一人を残して逃げるしかなかったそうです。(彼は消防団員として救命に当たっていました。)震災後、私は家族や友人の事が心配で、体が震え憶える毎日を過ごしておりました。家族の身元もわからぬまま、何かしなければと!
そんな時、 Facebookで気仙沼を愛する方達に出逢いました。そのメンバーとなった一人がやっちさんだったのです。(当時は6名〜7名で気仙沼市公式 Facebook英語版を発足)彼の方から、”りっちゃん?”と、呼ばれてネットでの再会に嬉しくなりました。お姉様の紀子さんとも面識も会話もした事が 無かったのですが、やっちさんを通じ、あっというまに親戚のような交流がスタートしました。
昨年の11月1日は私たち夫婦の気仙沼での最終日だったのです。どうしても一緒にお食事をしたいと紀子さんにおっしゃって頂き、お母さまのかよちゃんと何十年ぶりの再会を果たす事ができました。お食事をしながら話題は尽きなくて気持ちが高揚したまま、アンカーコーヒーへ向かい、くつろいでいたときに糸井さんご一行がいらっしゃったので本当に驚きました。糸井氏は私の尊敬する素晴らしい方で、そして小池さんとは既にFBで繋がっておりました。(キャンディ美雪さんがずいぶん前にお世話になったという事は後で知りました。)そして由佳里さんにも。
全てが神様が仕組んで下さったご縁なのですね。キャンディ美雪さんは私のブログでは何度もご紹介しておりますが、10年以上前、フロリダ旅行中に立ち寄ったディズニーで子供達が一目惚れしたアーティス トだったのです。彼女の素晴らしい芸術に三人の子供達はエプコット(日本館)を離れなくなりました。その時、断られるのを承知で3ヶ月後に控えた、私たちの住む町の『日本祭り』にご招待したいけど、予算が全くない事を伝えました。何度かメール交換をし、彼女のご好意で夢が叶う事になったのです。
5時間ノンストップで飴を作って下さったのです。
(飴の売り上げの半分を寄付に半分を材料費、宿泊/食事は我が家、交通費は当時、旅行会社として取引があったノースウエスト航空と私の会社が負担。)彼女のお陰でお祭りは大成功しました。4月にお祭りが大成功したのですが、5ヶ月後の9月にNYCでのテロ事件発生しました。そのあおりを受けて、ディズニーのエンターティナーが半分解雇され、キャンディさんも職を失いました。
私たち夫婦はあまりの悲しみに小学校全校生徒、そして町中に彼女の悲しみを訴え、嘆願書を作成し、ディズニー宛に手紙を出しました。
その数ヶ月後、美雪さんは復帰されたのです。
彼女は私たちの村人に感謝を伝えたくて3年後に私が企画した、小学生高学年で運営する『日本祭り』にボランティアで参加 して下さいました。
それがきっかけで今では家族ぐるみのおつきあいに発展しました。2011年の8月には美雪さんのご希望で日本の復興の為に東北で飴を作りたいとお申し出がありました。その時に訪問先を気仙沼に希望して下さったのです。彼女は感謝の気持ちを込めて、私の故郷で恩返しをしたいとおっしゃってくださいました。
偶然、気仙沼市の『復活祭』と日程が重なり、企画、運営を担当した方に私がネットで連絡を取りながら美雪さんをご紹介させて頂き、イベントの一つに加えて頂きました。
4日間の滞在先は被災した家族が仮住まいしている被災宅、東京から一関までの新幹線の切符は東京在の私の姉がプレゼント。(美雪さんと娘さんの二人分)一関から気仙沼までは兄が送迎をしてくれました。4日間の滞在中も兄がびっしり美雪さん母娘を24時間、運転手として案内してくれました。兄は仕事を失くし、毎日、自力で瓦礫撤去作業と消防団員として夜の見回りなどをしていました。
美雪さんは気仙沼で4日間300本以上の飴を作って笑顔をふりまいて下さいました。
その活動が日本政府の目に留まり、シンガポールで開催されたイベントに親善大使として昨年の3月に飴細工を披露されました。そして4月にボストンのお祭りにもいらっしゃいました。
美雪さんが気仙沼市を訪問されたレポートをこちらでご紹介しています。
このような素晴らしい繋がりのあるキャンディ美雪(Candy Miyuki)さんは、こんな風におっしゃっています。
律子さんは、私のアメリカのお姉ちゃんで、本当にお世話になっております。
世の中、本当に狭いですねー。私もブログで『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』を紹介させて頂いたら、30年前に、コステロのライブに一緒に行った、レコード屋のおにいちゃんからメールが来ました。デッドヘッズなので、たまたま検索で私のブログを見つけたそうです。今度、30年ぶりに会う事になっています。
ほんとうに、「縁」というのは不思議なものです。そして、ありがたいことです。
生きていることの意味は、こうして人と出会うことなのかもしれません。
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