アメリカ独立戦争が始まった日
一七七五年四月一八日早朝、ボストンから十五キロメートルほど北西にあるレキシントン村の広場では、赤い制服に身を包んだ英国軍兵士たちと、質素な身なりの地元の住民兵「ミニッツマン」たちが銃を構えてにらみ合っていた。
英国軍は約九百人、それに対してミニッツマンは七十七人。それを四十人から百人といわれる見物人が、息をのんで見守っていた。
その場に遅れて到着した英国軍指揮官ピトケアンは、英国軍兵士たちに「撃つな」と命じ、それからミニッツマンに「反逆者め。武器を捨ててこの場から去れ」と叫んだ。
ミニッツマンのリーダー、キャプテン・パーカーがそれを受けて兵士たちに退却するように命じ、何人かがその場を静かに立ち去りかけていたとき、ひとつの銃声が響いた。
この銃声に誘発されて数人の兵士が銃を撃ち、連鎖反応で銃撃戦が始まった。これが、アメリカ独立戦争の始まりである。
超大国アメリカ合衆国の出発点となった最初の銃弾を放ったのは、茂みに隠れていた傍観者だったとか、英国人の平民だったとか、いろいろな説があるが真相は謎のままである。
それから約二百年間、「建国の英雄」の子孫達にアイルランド系移民やイタリア系移民が加わったものの、レキシントン町は、人よりも牛の数のほうが多いような農業中心の小さな町にすぎなかった。そののんびりした町に変化をもたらしたのは、第二次世界大戦後の経済ブームだった。町は急速にボストン市のベッドタウン化して工業と商業が盛んになったが、さらに町の様相を変えたのは一九五〇年から六〇年代にケンブリッジ市界隈から移住してきたハーバード大学やマサチューセッツ工科大学の職員たちだった。
言語学者で思想家のノーム・チョムスキー、ノーベル平和賞のヘンリー・エイブラハム、知的巨人と呼ばれるエドワード・オズボーン・ウィルソンなどに代表される知識人たちが増え、現在では住民の成人人口の三十%が大学院卒業者になった。戦争直後には、民主党員が四人しかいない保守的な町だったのに、新しい住民たちのために急速にリベラルに傾いていった。
新しい住民の連鎖反応
新しい住民たちは、レキシントン町の公教育に大きな影響を与えた。
大学で教える彼らは、自分たちの子供にとって理想の学校教育を実現することに熱意を抱き、学校に協力していろいろな改革を試みた。
六〇年代の米国東部は革新的なアイディアに満ちていて、「何ができるか、まずやってみようじゃないか」という時代だった。国や州だけでなく、町の公立学校にも標準カリキュラムなどというものはなく、それぞれの学校が勝手にカリキュラムを作っていた。子どもたちに自由やゆとりを与えたほうがすばらしい能力が生まれる、という考え方がもてはやされたのもこのころだ。
現在町に六つある小学校のひとつ、エスタブルック小学校は、ハーバード大学とレキシントン公立学校の提携で「チーム教育」という新コンセプトを実現するために、一九六一年に設立された。学校の建物も、このコンセプトを実行しやすいようにデザインさた。
チーム教育は試行錯誤を重ねた結果自然消滅したが、教育熱心な保護者に支えられたエスタブルック小学校の学力が突出し、レキシントン公立学校はほかの小学校を同じレベルに引き上げるように努力した。
このような努力の噂が広がり、「良い教育」を求めて教育熱心な親たちがレキシントン町に移住してくるようになった。ことに、第二次大戦後には皆無だったユダヤ系の住民が急増し、引き続いてアジア系移民が移り住んだ。マサチューセッツ州全体のアジア人人口は四%未満だが、レキシントン町は約十二%で近隣の町よりも多く、エスタブルック小学校では約三割の生徒がアジア系あるいはアジア系の混血になっている。また、クラスの三割前後の両親あるいは片親がユダヤ人で、中東、ヨーロッパからの移住者や海外赴任の「外国人」も多い。
住民の変化は、宗教にも影響を与えた。ボストン界隈はカトリック教徒が多いのだが、レキシントン町にはプロテスタントだけで十以上のまったく異なる宗派の教会があり、中国系の移民が集まる「中国バイブル教会」もある。キリスト教以外にはユダヤ教のシナゴーグが三つもあり、仏教徒協会、ギリシャ正教の組織、どんな宗教的基盤の人も受け入れるユニタリアン教会もある。
アメリカで最も多いWASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)は、このようにレキシントン公立学校ではかえって少数派(マイノリティ)なのである。
アメリカの公立学校の概要
ここで簡単にアメリカ合衆国の公立学校について説明しよう。
日本では小学校六年、中学校三年、高校三年と決まっているが、アメリカではそれをどう分けるのかは学校次第である。小学校が五年間の学校もあれば、小学校と中学校が一緒になっている学校もある。そこで、アメリカでは小学校から高校卒業までを一から十二年生までの通し番号で呼ぶ。
レキシントン町には、公立の小学校が六校、中学が二校、入試のない普通高校が一校あり、これらすべてを「レキシントン公立学校」という一つの組織が管理・運営している。幼稚園から五年生までが小学校(六年制)で、六から八年生までが中学校(三年制)、九から十二年生が高校(四年制)である。
アメリカ合衆国では、学校の分け方だけでなく、カリキュラムや学力レベルも全国的に統一されていない。
アメリカの富と頭脳は東西の海に面した地区に集中しているが、公立学校のレベルとなると東西南北では格段の差がある。はっきり言ってしまえば、東高西低、北高南低だ。
レキシントン町があるマサチューセッツ州は、「モーガン・キトノ出版」の「最も賢い州賞」(Smatest State Award)という公立学校ランキングで、毎年全米一位から三位に属している。二〇〇四年から二〇〇七年にかけての上位四位は、マサチューセッツ州とその北に位置するヴァモント州、ニューヨーク市近郊のコネチカット州とニュージャージー州の順位が入れ替わる程度で、賢い州はいずれも北東部に集中している。
対照的に南部と西部は公立学校の不毛地帯である。
「最も賢い州賞」のワースト10の常連は、ニューメキシコ、ネバダ、アリゾナ、ミシシッピ、ルイジアナ、アラスカ、アラバマ、カリフォルニア、ハワイ、テネシー州などで、ブッシュ大統領お膝元のテキサス州も二〇〇四年の三十三位からはやや改善したが、いまだに五十州中二十四位と北東部とは比べものにならない。
公立学校の二つのタイプ
アメリカの公立学校には、大きく分けて二つのタイプがある。
住民の子弟なら誰でも入ることのできる一般的な公立学校と、入学選考がある「マグネットスクール」である。マグネットスクールとは、ある分野で優れた才能を持つ子どもを広域から集める公立学校で、多くは大学、州、企業との連携で運営され、あらゆる場から助成金を受けている。
アメリカでは、住民が経済的に安定している近郊の公立学校は良いが都市部のそれは荒廃している。日本人がアメリカの公立学校に抱いている悪いイメージは、こういった都市部のものである。ギャングの抗争やレイプが日常茶飯事だったサウスボストンで育った私の友人は、必死で勉強して全米で最も古いマグネットスクールの「ボストンラテン」に入学した。別の友人の父親も、サウスボストンのアイルランド移民の貧困から抜け出すための唯一の方法として「ボストンラテン」に入学したくちである。
しかし、マグネットスクールの主な存在意義は、慈善ではなく才能がある子の能力を最大限に伸ばすことにある。理数系で有名なのが、ワシントンDC近郊バージニア州のトーマス・ジェファーソン科学技術高校だ。厳しい入学選考や企業との提携で充実した科学のラボなど、一般的な町の公立学校とはまったく性質が異なるために、マグネットスクールは公立ではなく「税金を使った私立学校」に過ぎないという批判も聞こえてくる。
だが、社会・共産主義国のロシアや中国は、優れた才能を国家の未来のために選抜して開発している。アメリカがそれらの国に負けないように税金を使って才能を開発するのは、極めて当然のことである。
いつの時代も、アメリカ政府の最大の関心事は軍事力と経済力で世界ナンバーワンの地位を維持することだ。そもそもアメリカが理数系の教育に力を入れるようになったきっかけは、ソビエト連邦のスプートニクだった。アポロ計画がそうだったように、ソビエト連邦との競争に勝つための対策だったのだ。時代は変わり、二〇〇六年の大統領一般教書演説でブッシュ大統領が競争相手として名指しにしたのは、中国とインドである。相手国が変わっても「理数系の教育に力を入れる」という対策は変わらない。
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