考える力を早期に摘み取られた子供たち
レキシントン公立小学校のいくつかでは、親のボランティアが「Math Olympiads(算数オリンピック)」という課外活動を運営している。これは数学教育者のジョージ・レンクナーが1979年に始めたもので、小学校4,5年生を対象にしたプログラムと中学生対象のものがあり、現在では全米50州と世界26カ国であわせて約5000チーム、15万の生徒が参加している。
「算数オリンピック」のユニークさは、個人プレーではなくチーム努力を重視していることである。11月から3月まで毎月あるテストのすべてに満点を取らない限り誰も自分が何点を取ったのかは知らされない。私がボランティアに加わったのは、友人の夫がリーダーをしていて断りきれなかったからだ。リーダーのデイル・ディラボーはMIT(マサチューセッツ工科大学)で数学を専攻して心理学者になった変り種である。子供に接する前に、ボランティアの私たちを集めて「算数の楽しさを教える」ためのルールを徹底させた。まず、生徒同士を決して比較せず、決して、「どうしてこんな問題も解けないの?」といった批判はしないこと。そして、算数が苦手な子にはできることを探して褒めることで自信をつけさせる、といったものだ。
私以外のボランティア3人がMIT(マサチューセッツ工科大学)とインドのMITとして知られるIndian Institutes of Technologyの卒業生というのには怯えたが、Math Olympiadsに出てくる問題は文章問題やパズルが中心で、頭の運動としてけっこう楽しませていただいた。下記はサンプル問題である。
算数オリンピックを二年間指導した私は、ある奇妙な現象に気づいた。
自由に席を選ばせたので子供たちは勝手にグループを形成するようになっていた。
そのひとつは、小学校低学年のころから教師に「優等生」とみなされてきた子供たちのグループである。彼らは無駄口を叩かないだけでなく、助け合って解くべき問題でもほとんど討議をしない。誰かが解き方を見つければみなそれを写す。授業ではないのに、いつも深刻な表情で問題を解いている。単純な計算問題だと他のグループよりも速く、正確なのだが、「袋の中にいくつか同じサイズのビー玉が入っている。黒のビー玉は八個で、残りは赤いビー玉である。目をつぶって袋からビー玉をひとつ取り出して、赤の確率が3分の2だとすると、赤いビー玉の数はいくつか?」とほんのちょっとひねっただけで極端にスピードが落ちる。
何よりも私がフラストレーションを覚えたのは、「状況が分からないなら、絵を描いてみようよ」と手助けしようとすると、「それはいらないから、説き方を教えてちょうだい」とせっかちに「方程式」のようなものを求めることである。
また、「宿題じゃないからいいのよ」と言っても、頑固に問題のコピーを持ち帰ろうとするのも彼らの特長だった。
別のグループは、ともかくにぎやかだ。授業中に教師から叱られるタイプの子が多く、テーブルの上に身を乗り出し、怒鳴りあったり、笑ったり、まるで遊んでいるような雰囲気だがちゃんと問題について話し合っている。このグループに先のビー玉の問題を与えると「16」と即答する子が多かった。「どうしてそうなったのか、他の子に教えてくれる?」と尋ねると、「だって、そんなの簡単じゃない」と当然のことを説明する必要はない、といった感じなのだ。このグループは文章問題の把握が非常に早く、しかもひねった問題ほど熱中する傾向があった。そのかわり、計算となるとさほど速くなく、ケアレスミスも多かった。
もっと興味深い発見は、小学校低学年あるいは幼稚園入園前から公文式などで高速計算練習をしてきた子供たちは私が知る限り全員前者のグループに属しており、後者のグループには公文式に通っている子は誰一人いなかったという事実である。また、年間を通じて最も多くの得点を獲得した者にトロフィーが送られることになっているが、小学校4年生と5年生のトロフィー獲得者はどちらも後者のグループに属していた。
どうやら、幼いときに高速計算練習をした子供たちは、数学に限って言えば自分で考える楽しさと能力を失ってしまったようなのである。
「私の子供は公文に通っていたが、今でも数学が得意だ」という人はいるだろう。だが、それは「…にもかかわらず」なのかもしれない。もしかしたら、その子はもっと優れた数学の才能を発揮していたかもしれないのだ。
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